2 人別について

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 (表紙)     安政三(一八五六)丙辰年
       人別帳
         三月 八日写
 (本文)差上申人別宗門事
    内容は「町村支配の制度」にあり
    「人別帳」参照のこと

「人別帳」(安政三丙辰年三月)
雲岩寺(大塚栄蔵)

参考
   須佐木村高反別小前改帳
 (表紙)
    那須遠江守様御検地
 
      須佐木村高反別小前改帳
        承応二(一六五三)年己五月
(本文)
                       惣左衛門
 一上ゝ田壱町六畝廿四歩
  分米拾四石九斗五升弐合
 一上田六反弐畝廿四卜
  分米八石壱斗六升四合
 一中田四反八畝廿五卜
  分米五石三斗七升弐合
 一下田四反九畝廿六卜
  分米三石五斗八升八合
 一下ゝ田五反弐畝廿弐卜
  分米三石六斗九升壱合
 一上茶壱反五畝拾四歩
  分米壱石七斗壱合
 一中茶四畝六卜
  分米三斗七升八合
 一下茶六畝拾五卜
  分米四斗五升五合
 一上ゝ畑壱町七反五畝廿六歩
  分米拾九石三斗四升五合
 一上畑壱反四畝拾四歩
  分米壱石三斗弐合
  一中畑四畝卜
  分米弐斗八升
 一下畠八畝廿三卜
  分米四斗三升八合
 一下〃畑壱畝拾卜
  分米五升三合
 一屋敷六反弐畝拾七歩
  分米六石八斗八升弐合
 分米六拾六石六斗壱合
 田畑合六町四畝六卜
   内訳
    田方三町壱反壱畝壱卜
    分米三拾五石七斗六升七合
    畑方弐町九反三畝五卜
    分米三拾石八斗三升四合
     新田
 一上田弐畝拾五卜
  分米弐斗
 一中田六畝弐卜
  分米四斗弐升四合
 一下田壱反九畝卜
  分米壱石壱斗四升
 一上茶弐反拾卜
  分米壱石六斗弐升七合
 一中茶弐反拾六卜
  分米壱石四斗三升七合
 一下茶壱反拾六卜
  分米六斗三升弐合
 一上畑弐拾六歩
  分米五升弐合
 一中畑弐反五畝八卜
  分米壱石弐斗六升三合
 一下畠壱町三反八畝拾壱歩
  分米五石五斗三升五合
 分米拾弐石三斗壱升
 田畑合弐町四反三畝拾四歩
     内訳
 田方弐反七畝拾七卜
 分米壱石七斗六升四合
 畑方弐町壱反五畝廿七卜
 分米拾石五斗四升六合
 二口合八町四反七畝廿卜
 分米七拾八石九斗壱升一合
              (中略)
                        藤右衛門
 一上〃畑三畝卜
  分米三斗三升
                        源之丞
 一上〃畑四畝六卜
  分米四斗六升弐合
                        久三郎
 一上〃畑六畝拾六卜
  分米七斗三升九合
                        次右衛門
 一上畑七畝卜
  分米六斗三升
 一下畑三畝拾八卜
  分米壱斗八升
 合売反拾八卜
  分米八斗壱升
 田畑合三拾五町四反三畝弐歩
  分米三百七拾九石四斗壱升六合
     内訳
 上〃田四町九反八卜              石盛十四
    分米六拾八石六斗三升七合
   上田四町六反三畝拾九歩          石盛十三
    分米六拾石弐斗七升弐合
   中田三町七反九畝廿六歩          石盛十一
    分米四拾壱石七斗八升五合
   下田弐町弐反四畝拾歩           石盛 九
    分米弐拾石壱斗九升
 下〃田壱町八反七畝拾弐歩           石盛 七
    分米拾三石壱斗壱升八合
   田方合拾七町四反五畝拾五歩
    分米弐百四石弐合
   上茶四反五畝廿七歩            石盛十一
    分米五石四斗九合
   中茶四反五畝廿九歩            石盛 九
    分米四石壱斗三升七合
  下茶三反五畝拾七歩             石盛 七
   分米弐石四斗九升
  上〃畑拾壱町四反壱畝歩           石盛十一
   分米百廿五石五斗壱升
  上畑弐町六畝弐歩              石盛 九
   分米拾八石五斗四升六合
    外ニ壱畝廿卜
     分米壱斗四升九合
  中畑壱町九反四畝拾六歩           石盛 七
   分米拾三石六斗壱升七合
    内弐畝六卜 水性不足
     分米壱斗五升四合
  下畑九反弐畝拾壱歩             石盛 五
   分米四石六斗壱升八合
下〃田三反六畝五卜               石盛 四
 分米壱石四斗四升七合
  畑方合拾七町九反七畝拾七歩
   分米百七拾五石四斗壱升四合
                         (以下略)
(注1)この戸村家文書はたて長袋綴で、表紙共三七枚のもので惣左衛門など、五十二名にわたって反別、分米などが記載されている、須佐木村高反別小前改帳である。

 承応二年(一六五三)、那須遠江守により検地されたものである。

 
 須佐木村は、文化八年(一八一一)に、黒羽藩領となっている。丹治比系伝一、巻六の「増陽之伝」に「文化八年辛未十一月在所野州芳賀郡深澤村ノ地ト那須郡板室村並須佐木中組ノ地ト村替ヲ願ヒ、旧領ノ如ク板室・須佐木ノ二村ヲ賜リ、深沢村ヲ公地トシテ領ス」とある。参考までに付記する。
「小前百姓」は平百姓、本百姓ともいう。近世の自作農階級の一つ。その村に生れ、自己所持の田畑を耕作し、年貢、諸役を負担し、村政に参加する農民のことである。これらの百姓は幕藩体制の経済的基盤を担っていた。

(注2)この資料は、地域性を等しくする「天領」・「寺領」と対比するために参考として掲げた。