一 農村の荒廃と藩農政の指針

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 下野の農村のみならず、全国的に宝暦、天明期(十七、十八世期)頃より、商品生産が高まり、豪農豪商が台頭し流通市場を自由に牛耳り、江戸を中心とする旧藩体制の商品経済を支配すると共に、特産品生産地帯を形成するにいたった。この為農村荒廃が著しく進み、深刻の度が増していった。こゝに在来の領主支配は、大きく揺振られ、宝暦、天明期は一つの転換期となり、この封建支配をたてなおすべく、各藩が仕法改革を行うのである。
 その中で黒羽藩では、享保の調査の時、二万四百七十四人の領内総人口が明和年間には二万人そこそこになった。「当家一万八千石の地行の内、三千石余八永荒に成て、今一万五千石も不足也」(大関増備『政事改正考』)と云う誠に財政逼迫の状態であった。
 そこでこの財政をたて直すべく、特に農村復興を中心として、明和五年(一七六八)郷方改役の新職をおき、これに鈴木武助(為蝶軒)が当り、翌年には郷倉を設置し稗、籾の貯穀を始め、草木の茎、根葉まで貯蔵させ備荒策をとり共に全領にわたる田畑荒所改めを行い、荒地に野菜・雑穀・漆・楮の植付をすゝめた。その他戸口増殖、出生間の間引禁止、目安箱の設置、風俗矯正、倹約貯穀等各般に民意を確めながら農民の指導に当り、以後寛政十年(一七九八)まで下野における、本格的な優れた復興仕法のさきがけであった。然し武助の仕法の本領は備荒救恤策が中心で、農業技術の改良による生産力の向上の姿勢に乏しく、極力自給自足的経済体制の守成の行き方で、専ら百姓の勤労心を喚起することで、復興を計ったもので、商品経済浸透の一層の強さを増す時、この大きな変貌を避ける道はなく、その点では彼の農政はこれに積極的に、対応なし得ない保守的な施策であった。
 武助は、飢饉対策を第一として、仕法を進めてきた関係上、ことに天明飢饉の救済に発揮した手腕は高くかわれ、世間の注目するところとなり幕府の代官から推奨された。
 晩年為蝶軒と号し著書『農喩』をまとめたが、これは下野内外にまで普及し、その後長く農政家篤農家の必読の書となった。勿論武助の仕法の精神は黒羽藩農政の基礎をなすにいたった。
 次に藩領農政の基調を規定した領内農業の在り方を明細に記述された農業の技術書である『稼穡考』は、藩主増業(一七八二~一八三〇)の著作『創垂可継』に収録されている農書である。
 その内容は、稲作を中心に、大麦・小麦・大豆・芋・稗・岡穂・木綿・油荏・粟・もろこし・大根・秋菜・茄子・小角豆・麻・胡麻・午房・胡蘿蔔(こらふ(人参))・薯蕷(しょま(やまいも))・馬飼料刈豆・蕎麦などの、畑作物の耕作、仕寸法(技術)が、当時耕作された農作物の大半にわたって、取り上げられている。この農書は、領内の六ケ村の農耕の実態の調査を基として、そこに見られる地形の状況、「田畑の上中下」「方角暑寒」の相違を検討した「其所之耕地の風儀」の共通性を、領内の田畑耕作仕付の基準としてまとめたものである。各作物毎に播種の時期・方法・播種量・施肥の仕方反当り施肥量が指示されている。稲作大小麦は「田畑耕作仕付」を中心とし詳細に記述されている。「種籾浸し方のこと」、「苗代糞之事」、「苗代〆方之事」、「田植付之事」それに、耕起から収穫にいたる全作業の行程と、いもちの防除法、田水の懸け方、懸干しが丁寧に示されている。鈴木武助が「農喩の第十章に説いておるように、宮崎安定翁(一六二三~九七)が四十年心を費し、力を労せし『農業全書』を読むべきことを推奨している。宮崎安定は安芸藩士の出身で、徳川初期の農学者としてその著書『農業全書』は、当時の農耕の発達に大きな貢献をした。徳川時代の農書の原典であり聖典であった。したがって、『農喩』、『稼穡考』共に『農業全書』の影響をみのがすことはできない。黒羽藩としては、卓越した農政家鈴木武助、農将としての優秀な増業等の働きにより、天明・天保等の凶作を最少限に止め、農村の荒廃の復興を幾分なりと、成し遂げることができた。次に『稼穡考』の全文を掲載する。
 (注)「稼穡」とは穀物をうえること、刈りとること~字源)
    稼穡考
一 田方仕付事、春の彼岸時分まてに、田をうなひ置て、八十八夜前に苗代田の分ハ二番うなひいたし、八十八夜六七日まへにあらくれを抓、畔を塗水不干様に致し置、八十八夜四五日前に苗代をしめて、岡田ハ翌日新に水をかけ、種を蒔又足入の場所にてハ水乾たる処ハ、二日も見合、水干次第右に准し、種を蒔付るなり、朝ハ九ツまてハ陽にして種動事悪し、昼過より蒔ハ種動事なくかたよらす、むらなくして苗立よし、若苗にいもち入事あらハ蕎麦藁を能せんし出、さまし置、其せんじ汁を用へし、又薄いもちにハ蕎麦ワラ上ニ少々置てもよし、又廐へ入置懸るもよし、三五日之内いもち去へし、卯の葉のこほれ候時分を目当ニし、たすけに用ゆ、田植付ハ種を蒔て、凡四拾三五日目より植始り、早稲仕付の岡田ハ夏至の頃まてに、植仕舞なり、五月中の前後を最中といたす、晩稲仕付足入之場ハ半夏時分迄に植仕舞なり、水を懸置義ハ岡田通りニて四十四五日位ニて水をきり、足入之場ハ立秋に至まて懸置なり、尤前方ハ半夏農中と云て仕付せしかとも、近年に至りてハ、諸作とも仕付方相後るれハ、不宜と農民一統申伝也、古来より伝に柳之葉へ虫不付色能栄る年ハ稲作よろしといふ

 種籾浸し方の事、稲穂に雌雄あり、雌雄を蒔ハ多く生するより雌雄之分とハ雌苗ハ穂先末にて二筋同し様に揃ひあり、雄種ハ穂先一筋ニて不揃、又右之雌穂之末四分を種に用へし、尤、中にも長き穂をゑらむ事也、雌穂ハ上根すくなく縦根多し、故に旱魃大風霖雨水押等ニもいたみ少く、雄穂ハ浮根多く縦根少く稲に力なき故ニ旱魃大風霖雨ニいたむ、早稲ハ陽なり、中稲ハ陽中の陰也、晩稲ハ陰なり、此心を以て陰陽を考へ可蒔、又壱ツの穂の中にも末ハ早稲の気あり、中三分ハ中稲の気あり、末三分ハ晩稲之気あり、諸の糯ハ陽なり、毛のある種ハ年々に作りて髭段々短くなるハ是土地に飽く故なり、夫ニ准し取実も少し、如此種ハ不可用、総て雌苗を植るとも雌苗計り生る物にあらす、しかしなから変しても雌苗の気有ゆへ四五年ハ用てよし、籾の拵念入あく無之よふ、とうみにてあをり出し、俵にし、四五日浸し、洗ひ種同様にいたし蒔仕付なり、尤前方ハ十日余宛も種をひたしまきつくれとも、近年ハ永く種を浸し蒔ハ、苗の生立不宜ニ付、近年ハ永く種を浸するをなさす、但田壱反歩の種籾壱斗の積り也、稲種水に浸す事大塩村辺ニてハ日数三十日位、又ハ水やわらかなる所ハ十五日位浸す也、蓑沢辺ハ高山の谷水流出水なる故に凡四十日余も浸す也、土用後初秋にいたり、冷気早く来り、又ハ風難等の節、春種を浸日数不足なる時ハ秋之実入に至り冷気にいたむといふ、又浸せし籾たねを種井戸より取上、俵のまゝ四五日も日に晒し、あたゝめぬれハ、俵之中ニて自然にもちしろ/\と芽をきれるを盛に致し、又日々雨天ニて寒き時はたき火の近処ニて俵之儘あたゝむれハ、右同よふに芽出るなり

一 苗代糞の事総て糞之事ハ乾地しもこやし(下肥)・焼酎之粕・油粕等よし、右地ハ諸の糞よし、陽地ハ其処之格上糞可也、陰気つよく冷気之ある田ハ焼灰、煙草のくきなとよし、山田日を不見処も、此類よし、泥田深田にハ山しば若草を入てよし、湿け之処ハ、雑糞よし、鯡・干鰯・大豆等よろし、総て田地之どし(ママ)といふハ、葱・韮・荏之類は臭田に入事いもちの入基なり、去年の青草廐の下層に入置、苗代前に差懸廐より出し置て、大凡田壱反歩之下糞ひく附三四駄入、人糞ふり桶にて三盃、又ハ大豆四升、是ハ釜に入少し煮立て掛けた荏粕ニても三升、〆かす干鰯之類弐升五合位掛れハ、大方宜し、種蒔三二日前に三分し二分ハ手一束に成てすへし、又二分ハ蒔付五七日前にしてよし、苗生立しより両度之糞ハ夕陰にする事よろし、日中ニてハ、虫入之基となる。

一 苗代〆方之事、荒塊を塗置処へ在之草糞を散し、水辺の青草を川へ大体一せをい位入置、細かに散し、手鍬を以てうのふをかいとふうなゐといふ、其上へ人糞を打散し、馬鍬ニて五六度もかき大凡かけたる処に右之大豆又ハ〆粕之類、何品ニても一品是をちらし地面平に成し、又一度馬鍬ニて抓、其跡を手にて能ならし、地面平にし、水干次第新に水をかけて種を蒔附るなり、蒔仕付六七日もすき、青々と芽出る節にいたり、五六日之間少し冷気之方に付ハ芽苗立をおさへ根元出しより根張強く、あまり冷気勝なる時ハ、種根落つかす、葉生し育て苗足弱く、浮々漂ひ枯失せ、苗薄く成なり、田植中は朦々と晴間なきを返てよしとす、其訳ハ稲草に病なく速ニ根付立なをれハ也、田植中の風雨ハ不宜、植仕廻て草を取り、天気継き土用十日程も前より土用半分ころまて大暑なれハ豊作なり、土用前十日程に、稲かふ(株)しけり、ふゑされハ譬土用中風雨順時も収納薄し、尤苗代の義ハ干かゐしの義も有之物なれハ、種を蒔二三日過て後は夕入相方より明六(つ)位まて三四夜も干付れハ大方ハ種ハ芽をふく也、其後に至り水を少し懸置、苗の芽先抜見る程にいたし、十五六日過てハ苗の生立に随ひ、水を増ハ夫より成長次第水干さる様に念入見廻りいたし、天変の外、苗代の違ハ無之、尤苗代ハ早稲ハ四五日も早く苗代いたし種蒔も右ニ准し蒔付てよろし

一 田植付之事、先年ハ五月中之頃より、半夏半に植たれとも、近年ハ五月中より五七日まへに植半夏之前に植仕舞方よろし、こへたる地ハ早々あらをしてよし、やせたる地ハ耕てをそくあらをしてよし、其故ハ土をかさねておくゆへ、土こんやわらかに成て、上田と成へし、苗代後大麦無之田の分ハ、二番うなひいたして水を懸置、荒塊を抓、畔を塗、其年の出精ニより、田壱反歩へ青草十駄も刈入廐糞十五六駄宛入て、細に散し、其跡を中しろといふ馬鍬にてあらくれ同様にかき、其跡を手鍬を以、田植前日にかいとううなひを致し、植付の当日に至り、又々馬鍬ニて悉く抓、地面平に相成よふに致し植付、尤陽地肥地ハ薄く、陰地痩地ハ厚心得に植る、旱魃之時雨降り田へ水のたまるやいなや、いそき抓ならし植る事ハ悪し、二三日も遅く植へし、節ハはつるゝも不苦、夫より田一朝毎に初湯水沢山に懸置三四日過て後水たけ壱二寸位に成よふに懸置て水不干よふに水見廻り致、尤田水懸方ハ土用中十四五日も懸水をとむる也、又冷気早く来る節は、土用半分も懸水を留るなり、大雨ふりて、大水に成てハ其儘水を落すこと甚あしく、植て三四日前に各畦に分量を極て水を落し、上より下へ吟味して高水ニ不成よふにすへし、高水に水の吟味なくしてハ、苗のためにあしく土用中は随分浅水にすへし、高水にしてハ田地に温り不入水計あつく、藁をねやして秋に至て、稲かふ(株)くさり稲伏へし、又水懸よき田ハ、土用中ニ二三日水を落し、干へし、殊に泥田・深田冷気之つよき田ハ折々水を落して天陽の通る事肝要なり、総て作物之実入其陽気の力なり、又物之肥へ栄ゆるハ陰気おひの養にあり、此等之事肝要なり、秋いもちの入ハ、秋水落し様のかけんによりて入事なり、秋水落しよふハ処々の格より五七日早く落してよし中にも早稲ハ十五六日もはやく落へし、陰気過れハ風によワく必諸の病を生するなり、陰陽之気不順にして、いもち、むしくひある時これをふせくにハ蕎麦のハら(藁)を常々貯置、能煮出し用ゆ、又は其儘廐へ入置、諸の物作ニ懸てよし、万のむしくひ蟻まき等を殺し難をのかるなり、又田地ニハ一貫目計俵につつみ田の水口に堀入れ、上の方をひらき埋むへし、田一統へひろく懸りてよろし栴檀(せんたん)の葉もよし、此二品にて不去品は大方まれなり、是ニて不去虫をハ鯨油を用へし、是虫にハするとき毒油也、少しも外の油ましりてハ功少し、凡田壱反ニ付一升つゝも積り、田に水を八九分ニはり置、尤日勢ひつよく水湯の如くなる時刻、上より洒(そそ)き酌かくれハよろし、しなへたる竹ニて稲の葉を押たをし/\幾へんも洗へし、是にてハいかなる虫もすみやかに不去事なし、其後に水を落し、又新に水を入へし、種油にも功(効)なきにもあらす、虫生事之多き土地にハ、煙草のくきを多くあつめ苗代の地こしらへの時分右之茎五分計ニ切、苗代の地に多く入、抓こなし置、種を蒔へし、此苗いか成田地に植てもよし、凡田植付後廿四五日目位より田の一番草を取、土用半頃に、二番草を取、草取様ハ初に右之方より取ハ中たひハ左の方より取、上番取ハ堅より取へし、右之通に幾辺も取事よろし、又稲かふ(株)を分ても取へし、右之如くすれハ浮根浮草もなく、苗之根元之稗も不残してよろし、第一数へん草をとれハ草に糞をとられず、土やワらかに稲の栄立事早し、土用明立秋にいたり水を干切る也、深田冷水之場ハ三四日前に水を切、夫より稲穂出花終節田稗を取、二百十日之頃ニ成り、大かた穂出揃ひ、尤早稲中稲花落て実むすふ、其頃より穂うら草とて田之稗を両三度宛も取捨るなり、大方ハ格別の違ハ、天変之外無之、刈取青枯きりたるを取入れハ格別宜し、又貯るにむし不付といふ、青刈ハ不宜、又稲彼岸に成れ早稲ハ大かたみのれとも彼岸より二十日過れハ刈なり、稲をかり干にハ懸干にするる、然事第一よろし、其故ハ刈て後まても実入よく米のしよふしまり升数多くなり、虫のつく事少し、縦虫付とも遥に遅し、臼搗て米多く不減、ワらもかわきよし、干たらぬ藁にて俵を作りてハ、極て虫を生す憂あり、干事ハ一たひつゝ懸て、穂を下にして干故、藁十分にかわき米ハ稲かふの精気収り、先深出す、又しら穂出来るも干のたらぬを取納か故なり、種ニする籾ハ青天に出し、むらなきよふに干へし、右は上田・上下田・中田まてハ是に准し助手入いたし、扠又足入の野田・下田・下々田ニいたりてハ、右之振り合ニ助等いたし、うへ付致事手廻り兼ニ付、秋稲を刈取し跡をうなひ置て水を一盃に懸置春彼岸後、暖気に成たる節水を切留、二番うない致、其節畔を塗置、夫より水少し宛懸置、其後見合荒塊致し植付前にいたり、よせ草を刈、畔を塗直し、大草を取て、半夏一両日前に植付なり、是又田草取事は、右同様一番二番共に草取懇に手入いたせハ格別の相違無之、併足入之場所におゐてハ、田稗穂打ハ不致、尤足入之場所、馬入兼候処有之候ては、秋過より手鍬を以てうない置、春に至り、弐三度うなひ田植前に成、よせを刈畔塗、草を取置、てしろと云手鍬を以切返し地面平に拵置、植付いたし、草取事一番一番草ともに右に准し取置、大方違無之

一 大麦之事、中之土ハ大麦大凡田へ計蒔付秋土用中蒔付宜し、又秋日に蒔ハよろ敷といふなり、立冬之節過にいたり蒔仕付れハ本をうしなひ、みのりあしく手入之義ハ、秋後一度、春両度も畦をかたきり刈取之義ハ五月中の前後に刈取なり、成丈早き方宜、蒔時遅成てハ寒気ニて根元薄く成なり、田方へ格別に多蒔付れハ翌年之稲不宜、畑之義ハ構なし、然とも畑不残蒔仕付てハ、翌年の作不宜故、休地致し置、其作に随仕付なり、乍去八月十五夜能晴時は大麦みのり能、九月十三夜ニ月さへし時ハ小麦宜といふ

一 大麦助之事、大麦ヘハ糞沢山にかけされハ不宜、大麦は田壱反歩へ草糞の能腐たるを凡十五駄程、人糞十桶、馬便七桶、小糠五斗位是へ灰三俵ほと右之品を悉く交、細かに成よふに致し、麦種壱斗八升入能々手鍬ニて切交せ、蒔付置、其上へ草糞の廐より出立を十五駄程も細に散し置、寒中より春始めまてに馬便二度もかけ置ハ、大方ハよろし、冬一度、春一度、水糞を引也

一 大麦蒔仕付之事、田をよりかへしといふ三鍬さしにうなひ置、土少し干候節、畦のさくをワらしにて踏蒔付也、其跡へ右之糞を入置、其上を手鍬ニて悉く土を細に打くたき、種糞に共に見よふニ土を能かけ、其後草糞を十五駄程も散置、此上へ馬便二度も懸置、是にて天変之外格別之違無之

一 畑小麦之事、是迄も大麦に准し、秋土用中に蒔付されハ不宜、され共多くまき時ハ土用過まても蒔也、是ハ種を多入不申ハ不宜なり

一 小麦助之事、大凡右に准すれとも、つくて糞、畑一反歩へ十駄、人糞振桶にて六桶、馬便五桶、小糠二斗、灰二俵、種一斗二升、右に准し、手鍬ニて細に切合せ蒔也

一 小麦蒔仕之事、畑によれとも、大豆・煙草・木綿・稗跡ハ四鍬、五鍬さしにうなひ、地を和らかに致し、右之糞をはこひ置蒔也、尤早蒔に無之てハ、是又中土之場所に有之間不宜、然る間後るゝ時は、稗跡なとハ柄を立さくり蒔に致し、直にからを切立、日向といふにいたし置ハ宜なり、尤外作作(ママ)の跡ニても蒔付、後時ハ右之通ニてよろし、其後生立次第日向に相成よふに畦を片切置仕付て春に成、彼岸過に二度、かたきり宜、馬便引候儀ハ、大麦に准す

一 大豆蒔仕付之事、大豆ハ大方小麦の作入ニ仕付くれ共、去年の煙草・木綿跡抔へ仕付て宜し、一通り作を片切置、種を蒔跡へ糞を引、土をかけ置ハ宜、蒔時之事ハ、入梅より五、七日前に蒔方宜なり、尤、大豆まきばらとて、白ばらの花咲始めを見て、蒔者も有之、八十八夜ニ蒔も有之、花前に作切り仕舞ハされハあした糞ハ畑一反歩へつくて糞三駄、灰一俵、人糞二桶位能合せ四斗四五升位入俵にて六俵位引は宜、尤大麦、小麦に不限、刈取後、二度片切手入いたして宜なり

一 芋仕付之事、芋仕付は三月穀留之節ニ至り仕付也、何程早蒔とも田植之歌を不聞内ハ、生不出といふ、芋ハ大方小麦の作入に仕付くれとも、是又去年の煙草跡か又ハ稗・油荏跡なとへ植てよろし、尤糞ハ荏糟之外不懸、尤芋植る畑ハ前年より心懸置、畑を和らかに成よふにうなひ置て、大麦成とも小麦成共仕付置、其畑へ芋仕付なり、尤助ニハ荏糟の粉壱反歩へ五六升位、芋種蒔付上へ少し宛ひねり懸ケ、其上へ土をかけ置、麦刈取し後、三度片切て宜し、馬便一二度も引ハ別て宜也、辛夷の花下へ向ひ咲年ハ雨多く降故芋作宜といふ

一 稗仕付之事、稗ハ大方春地に致置て、岡穂あと刈豆跡之畑か仕付作に有之とも畑に草無之よふに取出し跡を二鍬さしにうなひて、又仕付前に成、二番うなひ致、右之通にうなひかへして跡を馬ニて抓、畑を別に致、新に畦を堅置て、糞ワラつくてといふ寒中より春まて、ワらを廐に入置を悉く腐らかし、藁糞を畑壱反歩へ八駄、小麩にても、小糠にても一斗位宛、人糞五桶、馬便五桶位をかけて悉く踏、種五合を二度にふり、又能く鍬にてきり返し、踏合せ和らかに致し、右之糞にて入梅四五日前位より蒔始り、入梅まてにハ蒔仕舞ハ大方宜、古ハ卯の花を見て蒔、今ハ卯之花の莟を目当に蒔なり、生立て一番片切致し五本立位に間引置、若生立無之株ヘハ移し植て宜なり、又前年之煙草作り跡へ作ハ宜と申、秋之彼岸にみのる也

一 岡穂仕付之事、四月小満之頃苗代はりいたし、又ハ柿の葉のすすのかくれといふ時仕付なり、岡穂ハ春地の内ニて畑を撰み、大根跡またハ蕎麦跡の畑を稗畑同様ニ草を取、跡を二鍬仕しにうない、是も二度うなひて、馬にて畑を平に抓ならして、新に畦を堅中さひらき、前後に種を先に引置、糞を跡より引て、引蒔にいたしよろ敷なり、尤糞の事ハ草つくて糞に小糠を二斗、灰三俵、畑壱反歩へ八駄の積りにいたし、人糞六桶位、馬便三桶、小麩五升を入、悉く手鍬にて三四度も細に切合せて、種は別に引蒔ニいたす故七升位ニて宜、生立後三度片切て念を入、草を取置ハ大方よろしき也

一 木綿仕付の事、種之善悪雌雄をワかつ事、よき種ハうす黒し、悪しき種ハ赤く見ゆるなり、薄黒く見ゆる内ニて善悪あり、指ニてひねり見るに種に角あり雌雄をまひても、雌雄之二ヲ生するものなり、故に雌苗を立るハ、木綿多く出来て蒔にハ水に浸し灰をふりもみ合、一粒宛はらはらに蒔、雌木雄木を知る事ハ、雄木ハ苗太くして高し、雌木ハ苗少しかよわく形こふりニて初よりやさしく見ゆるなり、二葉の時是を考て間引へし、不案内ニして二葉の時分雄木を勢よき苗と思ひ残すハ誤なり、雌木ハ枝しげくかよワきよふに見ゆれとも風雨にいたむ事なし、雄木ハ木移りいかめしくして枝の間遠く、花の数すくなし、茎丈夫にゆれとも根元よワけれハ風雨にいたみやすし、木綿ハ大麦、小麦の作入に蒔付くれとも煙草あと大豆跡の畑へ大方仕付蒔時は四月の節に入、初さひらきより、小満中さひらきの間に蒔候も、中はひらき三日前位に蒔方よろし木綿ハ休地へ仕付てハ不宜、是も右作入に有之蒔時分に作を切て蒔付なり、しんを切ハ夏土用中のころより幾度も切方よろし、畑壱反歩へ俵糞拾壱俵、荒糠糞へ草つくてを入、焼酎粕細かに致て三斗位入、灰二俵、尤荒糠とつくて、糞ハ等分位にいたし、樽の若葉をとり、是又細に致置て壱俵も入、人糞五桶、馬便四桶、右之糞入木綿種一斗八升、水にて悉く洗ひ、糞の上へふりちらし手鍬ニて三四度切合せ、蒔付生立て後、一番片切の節一株五本立位に間引置、其後二度片きりてよろし、尤糞ハあら糠廐に入置、是を遣なり、辛夷花多く咲、此花上へ向咲ハ其年ひでりにして綿作よろし

一 油荏仕付方之事、油荏ハ大方稗跡へ仕付くれ候

 是ハ畑の草を取置て春蒔といふて仕付ハ八十八夜前日位に刈跡の稗株を薄鍬に切返し、其跡へ蒔ハ宜、原郷辺ニてハ八十八夜より十二日くらいまへに蒔年により春霜にあふ、時遅く蒔時ハ秋之霜に当る故、前条之通、多蒔なり、夏蒔仕付は入梅前後一両日の内蒔付て宜、藤の花散るを目当に蒔仕付なり糞ハつくてへ灰壱俵荒糠こやしを入、凡畑壱反歩へ糞五駄、人糞三桶、馬便三桶位を懸け、右糞の上へ種五合を振散し、悉く細に成よふに、三四度手鍬にて切合せ蒔付て生立候節、一株二本立に間引生立無之躯一は移し植、其後二度片切て宜なり

一 粟仕付之事、粟ハ小麦作入作蒔方宜、春蒔といふハ八十八夜之ころに至り蒔なり、又は四月之中よりも蒔、大方春地は稗跡なり是も畑の草を取置一番さくりいたし置、入梅より七日前位に二番さくりいたし蒔付て宜、糞ハ草つくてへ灰一俵稗糠抔有之ハ是を懸けて畑一反歩へ糞五駄種六合、是又糞の上へちらし、人糞四桶馬便三桶位もかけ手鍬にて三四度切合せ、蒔付て生立後一番片きりの節一科四本位に間引生立無之科ヘハ赤小豆なと植置、其後二度かたきりて宜敷なり

一 もろこし仕付之事、もろこしハこさ陰又は下土の場所にて宜大かたハこさ陰の春地へ蒔共、是も畑あまり深過さるよふにうなひ馬鍬にて抓、畑を平にいたし置、新に畦を堅、凡畑壱せ歩へ糞一俵、灰つくて糞に種二合、人糞にて合せ、中さひらき、末さひらきの間に蒔付、土薄く掛置、其後生立節一科四本位に間引生立無之科ヘハ移植三四度も片切てよろし

一 大根仕付之事、大根ハ稗跡の畑、春彼岸後大畦に三四鍬深鍬にうなひ置、田植後中うなひといふ、右之通大畦にうなひ返し差置て土用二日程を蒔始め、土用あき三日目跡まてに二度位に蒔候てよろし、尤立秋に至て初ての亥の日に蒔ハよろしといふ、子の日、午の日に蒔ハ七里の内なをからしといふて、此日をきろふなり、蒔時分にも右に准し、悉くうなひ畦の上を平に致し、足跡を附て、其足跡へ蒔なり、尤糞藁つくて糞を儲置て畑壱反歩へ糞拾駄の積り荒糠こやし荏粕三升、灰二俵、小麩二斗五升、人糞六桶、馬便五桶、青草を細に切交せ、右之品、鍬にてきり合せ蒔て、跡へ種を一ほしへ七ツハツ位蒔ハ大方違無之、生立之後十二三日目に間引二本位立置て、又七八日計過壱本立にいたし置て宜なり

一 秋菜仕付之事、秋菜ハ小角豆跡、麻跡の畑へ蒔也、尤二百十日前後之内、畑を深く平にうなひて新に畦を堅蒔付、子の日、午之日に蒔事をきろふ也、尤、糞ハ草つくてへ荒糠糞を入れ、灰小麩荏糟の類を入、畑壱畝歩ニ付、糞二俵位ニて蒔なり、尤人糞にて悉く合、種は別に少々宛ひねり落し蒔付て、其後生立次第間引されハ蘆頭になり兼るなり

一 茄子仕付之事、茄子ハ春彼岸のころ代をこしらへ実をおろし、入梅前後之内植なり、畑ハ大かたワせ小麦の作入に植付れ共、茄子植る場所ハ上土の処へ仕付なり、小麦の畦へ平置に深くさくりもり糞といふ藁つくてへ荏糠を入、人糞にて和らかに合せ、畑壱せ歩へ糞二駄置土を高く成程にかけ置、苗の元に糞を附て、引植置て小麦刈取後一番片切、二鍬・三鍬つゝ大畦にかたきり置、二番かた切の節、茄子の本を少しほり、人糞少しツゝ置一番片切之通二はん片切いたし、凡七八日も過て、又三番片切致置て跡にて作仕候へといふ作の中を両方ニかたきりてよろしきなり

一 煙草仕付之事、種を早くふせ置てしろに百十日置、植てより畑に百十日置ハ格別に干方よろし、煙草ハ壱分之節より、四五日過種をふせ置て、植れハ五月夏至之節より、植初なり、小麦作入に仕付くれとも大方茄子に准なり、尤春地へ仕付にハ畑何程にても拵に違有之間畑を丸畦に、大根畑同様にうなひ置中うなひ致して半夏前に、大畦を二ツ割にいたし、其中へもり糞を置高く成よふに土を懸置、半夏前後の内苗を引植付なり、尤小麦作入の中にハ茄子同よふに致て植るなり、二百十日より二十日之間しんをとめ芽の三度取下葉中之葉、彼岸前後に切、元葉ハ秋土用まて切仕舞なり、尤糞草つくてへ灰二俵、小糠二斗あら糠、糞を入、人糞四桶、馬便五桶懸置、手鍬を以合、畑壱反歩へ六駄、是を置て植付なり、其後小麦有之畑は、小麦刈取次第、茄子同様かた切置て、二番片切之節、右同様の糞に青草細かに切交、又六駄之糞を煙草の元へ置、二番片切いたし、其後茄子同よふ、其跡ニて二度片切れ共、四度めの作ワけには下葉二葉三葉つゝもきりて両方へかた切ハ大方宜し

一 小角豆・赤小豆仕付之事、赤小豆作入之事ハ八十八夜之頃より半夏過まてニ蒔なり、小角豆ハ四月之中のころよりまき仕付なり右両作とも同様之仕付方なり、入梅五七日まへに蒔付なり、畑ハ大方小麦作入に蒔、小麦作の中をさくりて草こへと灰を薄糞にて合畑壱セ歩へ壱俵、種を先蒔置て薄く糞を引土を薄くかけ、夫より二度も片切ハ宜なり

一 麻仕付之事、あさの事ハ春彼岸より三四日前畑を深くうなひ畦を細かに堅蒔て宜し、はた壱せ歩へ灰二俵人糞にてはらりと合種を見へ引蒔に致、跡にて糞を引、土をかけて其上へ藁の腐たる抔、又ハ何こみにても麻ふたといふ畑一面に散し風に吹立られぬ様に致置て宜なり

一 胡麻仕付之事、こまハ黒胡麻なれ四月四日を蒔日といゝ伝て、大方四日に蒔なり、尤節早き年ニてハ五月廿八日方より蒔事もあり、いつれ其外の日に蒔とも其日を蒔日と致て、蒔来る畦とかすを調数に切也、畑ハ小麦作入か又ハ春地にても宜、畑に草無之様何畑にても拵置て何れもさくり蒔に致せとも春地は一番さくりいたし置て二度さくり返し跡へ蒔なり、畑一セ歩へつくて糞あら糠をませ灰少し入、種壱合ふり散し、人糞を懸能合せ、此糞壱俵を以蒔て宜、生立後壱本立に、間引置片切三度位片切て宜し

一 午房仕付之事、午房ハ八十八夜より十日程前に畑を悉く深く平にうなひ置、常の畦より広く堅両方より少し高く成様抓揚、畦の上を平にいたし、はしの間八九寸位あけ、足あとを付、灰を入、人糞にてさくりと合せ足の跡へ一盃に置、種は灰糞のそはへおとし、尤四五粒位宛ひねりもし種悪くハ十粒位も蒔る土を懸置、生立て後、一科二本立に間引置、一番切、二番切は、午房の元へ土の不寄儘かたきり三度目にハ外作同よふ土の寄よふに片切て宜し

一 胡蘿蔔仕付方之事、にむしんハ半夏前に畑深く平にうなひ、畦を堅、是又両方より抓揚畦を少し高く致し、真中を至て浅く、手鍬にてさくり灰とあら糠を人糞ニて合、半夏日に糞を引、種も引蒔にいたし、上へ藁成とも麦からなりとも、糞の上へ少し懸置、生立節ふたを取、一本/\に間引、三度片切てよろし

一 薯蕷仕付之事、薯蕷ハ八十八夜より五六日前に畑を深く平にうなひ、畦を常の畦より五寸計も大畦にし、ふしの間壱尺位宛間置切、芋なれハ四寸位つゝに切植、又つく芋なれハ一ツを二ツ三ツ位にし植て、其上へ荏糟一つかみつゝ懸置、両方より土を抓揚、畦を高く成様ニいたし置、生立之後、しのしば抔にてまかきを拵つるをからませ置て、度々馬便をかくれハ大方宜

一 馬飼料刈豆仕付之事、馬の飼料、夏引ハ四月之中頃に蒔、立秋之前に引取、干あけ、其跡へ蕎麦等蒔なり、かりまめハ大方春地へ仕付、畑ハ稗跡へ仕付なり、又稗科手鍬にてふセ置、半夏過十日目位迄に、又ふせ返し蒔て宜、糞ハ草つくて大麦小麦なとのすくぼ、あら糠灰一俵も入、畑壱反歩へ糞七駄、人糞四桶位を懸、種一斗三升入、手鍬にて二三度切返し細かに合、蒔付て生立後二度かた切て宜

一 蕎麦仕付之事、蕎麦ハ大方春地へ蒔、畑ハ粟跡稗跡何作の跡にても宜、春より畑をふせ置、二度もふせ返し置、草の不立よふにいたし置て土用あき、八日九日目位に蒔ておくれの者ハ、寒暑時分まてに蒔ても可也、糞ハ畑壱反歩へ七駄つくてへあら糠青草を細にきりませ、灰壱俵もかけ、人糞四桶馬便四桶かけ、手鍬ニて三度切返し能合せて、糞を置種を跡にて蒔生立て後二度片切ハ宜なり

右は田畑耕作仕付之有増也、此外に菜細成諸作之品ニハ数多有之共、其年之気候により仕付ル間、此ニ略ス田畑共に早稲中稲晩稲と云、又ハ同様之作ニても右名目之替たる品数多き物ニ有之共、大方ハ右之仕付方に念入作致ハ格別成大違無之、尤村々之土地により山野の有無田畑之上中下方角暑寒之違によって、其所之耕地の風義有之、農民之手懸てしる処なり、又に誌す処ハ、我領分東西南北中央之村々六七ケ村へ耕作手入之仕方為書出、後来農民稼穡之艱難を子孫にしらしめんとほっし、各近村の事ハ此村々に準所なれハしるへし、六ケ村之農民書出所之耕作之仕方相合して、是を集め方角によって其村のみ違ふ事ハ、其村之名をあらわすもの也

(黒羽町『創垂可継』所収)