二 郷方取締令と農業の方向

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 糶駒(せりこま)を受けとる場合は、名主の印形を請けこれを持参して行くことになっていた。駒価格の五割を来年の十月に上納しなければならなかった。
     宝暦元年~寛政八年 郷方取締法令
 
     宝暦元年十月 糶駒運上につき申渡
 
     覚
一 此度相改世利駒取候者ハ、口合之外ニ名主添簡へ印形を請持参仕候て駒受取可申事、但、他所者駒取候ハ、地口合之もの名主へ申達請合候ハ、吟味之上上駒相渡可申候事

一 当世利駒より五割之取立、来十月世利駒前ニ急度上納可仕候事

一 主持之者ヘハ引替金不相渡、来十月当世利駒金高へ来年上納之節弐割五分増上納申付候事

一 世利駒割付当日売レ残候駒ハ主へ渡シ置、追々申付候筋有之候事

一 当年相改候義ハ近年在々困窮仕候ニ付、盆之内以御了簡割合御下ケ被下候上ハ、来十月糶駒前急度上納可仕候

一 村々名主へ申渡候ハ、糶駒取候者共願候ハ・得心次第添簡印形仕り取人へ相渡し可遣候

    未十月十三日          長右衛門
                    安左衛門
 田地を荒し、年貢を滞っている者については、名主を中心として、仲間でこれを改めるように指示され、どうしても解決がつかない場合は、五人組で取り立てなければならなかった。続いて大豆・たばこ・いも他の検見の状況が述べてある。
 
   ○ 宝暦二年三月 田地荒し、年貢未進につき申達
 
     覚
一 宝暦弐年申三月十九日、於御会所ニ名主組頭百姓代弐人ツヽ被召呼御口上ニて被仰渡候ハ、村々ニて百姓不相応ニ万事不宜立廻りニて田地荒し候族ハ、仲間吟味ニ仕可申候、若其所之役人五人組之下知異異(見カ)をも不相岡我儘成もの有之候ハ・不隠置早速注進可申候、隠シ置脇より相知候ハヽ、村頭五人組之者当人同然ニ御咎被仰付候筈

一 以来御年貢相滞候者ハ、其五人組之者へ被 仰付御取立被成候事

 右之趣同五月六日組頭・村頭外ニ五人組壱組之内より百姓壱人ツツ召呼申渡し候
 
   (3) 宝暦二年九月 検見廻村につき申達
 
     覚
一 当検見来ル十五日大豆田村見分初ニて例年之通相廻り候、内検見遂吟味、反せ歩位免付堀代無相違様相改、名主印形仕、下ケ札差出シ可申候、且又田畠成之義三品(大豆・たばこ・いも也)之作猥無之様相改、其上当仕付之作毛相記名主印形仕、是亦位免付相違無之様仕、下ケ札差出シ可申候、尤前村へ罷出可相伺候、以上

    申九月十一日            藤太夫
 不作困窮により、祝儀愁の寄合の倹約を強調している。
 
   ○ 宝暦五年十一月 不作困窮につき万事倹約申渡
 
     覚
一 当年麦作より打続至極之不作困窮ニ付平日艱難ハ勿論祝儀愁之寄合等ニも致倹約、万事不益之義無之様村中申合人々取続之儀第一ニ可仕候

  右之通組下不残様可申聞候、以上
    亥十一月五日         杢右衛門
                   藤太夫
 
 役人廻村の時は、特別の取計い、馬の準備、御土産品等は無用である。領主廻村の節は、百姓が農業に携っておる時はかむり物を取らないで下座すれば良い。
 取退無尽と号し、三笠博奕同然のものがあると聞くが、前々より停止の達しをしておくもので、神社(寺)建立講と名付、行っておる者があるが、これを召捕り、地主五人組、名主一町内まで、咎めを受けるから心懸けよというのである。
 
   ○ 宝暦十四年三月 役人廻村の節、倹約方申渡
 
     覚
一 在御用之節郷奉行之外鞍馬向後無之事

一 在出之者向後印札を以馬申付候間、其旨相心得印札無之者ヘハ、決て馬指出申間敷事、但シ此砌暫ノ内ハ印札無之候共、断次第馬可差出候

一 年頭其外 御目見ニ罷出候、百姓上物向後相止候事

一 家中出入之百姓、聊之品たり共音物堅無之様被仰出候間、其旨相心得奉公人末々迄百姓音物持参不致様可申付事

 右之趣、今般被 仰付候間、組下百姓へ心得違無之様銘々可申聞候
以上

     宝暦十四申三月廿七日    藤内
                   藤太夫 印
 
   ○ 宝暦十四年七月 領主廻村の節百姓礼儀向きにつき申渡
 
一 殿様御出先ニて百姓共農業ニかゝり居候節、かなり物を取候迄ニて農事不及相止ニ候、但、細道等御通り之節かつき物等致候者ハ其所ニおろしかむりものを取其儘にて下座可仕候事

  右之趣百姓苦痛ニ不相成様之以 思召被 仰出候間、其旨を存農業無懈怠随分出精可仕候
  右之通組々百姓家内之者召仕之者まて不残可申聞候、以上
    申ノ七月八日        藤内 印
                  藤太夫
 
   ○ 宝暦十四年十一月 取退無尽・博奕停止につき申渡
 
一 取退無尽と号し三笠博奕同然之儀有之由相聞候ニ付、停止之旨前々より相触候処、今以不相止、近頃ハ寺社建立講亦は品々之講と名付取退無尽致候ニ付、当人共相顕候分ハ召捕、此度御仕置申付候、向後右躰之義有之候ハヽ武士方寺社町方在方共遂吟味、当人ハ不申及、地主家主五人組名主一町之内之者共迄三笠博奕同然之咎可申付侯条、常々心懸吟味致疑敷もの有之ニおゐてハ早々可訴出候

右之趣寛保元酉年相触候所年久敷相成、若可致忘却哉付、尚又触置候間、急度可相守候
 右之通可被相触候、巳上
    申十一月十七日         藤内 印
                    藤太夫
 
 役人廻村の節は特別の接待等はせず、倹約に意を用うべきである。
 
   ○ 明和二年正月 役人廻村の節、倹約方申渡
 
     覚
一 支配人其外家中下々迄御用ニて郷中へ出候節所ニ有合之かろき野菜を出シ、其外何ニても一切出シ申間敷旨、先達て御定書ニも被 仰付置候所ニ、心得違之村方も有之、賄ニ魚鳥ヲ用ひ或ハ酒肴等内々ニて差出候義も有之様相間へ候、此度尚又相改諸奉公人へも申付候間、此以後決て馳走かましき義仕間敷候

    酉正月廿八日          藤内 印
                    藤太夫
                         村々
 
 田植え苗の過不足の、調整は代官がこれにあたった。百姓持高・免・荒所・上り地取調らべがあり、百姓銘々持分を報告しなければならなかった。
 当時においても、猪鹿は樹木・農作物に、被害を与えたため藩においては、これの駆除を奨励した。
 
   ○ 明和四年五月 田植え苗につき申渡
 
以廻状申触候、村々苗不足之沙汰相聞候、依之苗余り之村ハかこひ置、其旨代官迄可申達候、尤不足之村々よりも、是又可申達候、以上
     亥五月廿日          藤助 印
   藤太夫、藤五郎留守中故兼役ニ付如此候
   ○ 明和四年十一月 百姓持高・免・荒所・上り地取調らべにつき申渡
 
        覚
一 百姓銘々持分之高免位あざ相改書付来ル十二月廿日迄ニ可差出事

  但、荒所之儀も右同様、尤荒所/\と認可差出事
 
一 上り地之分ハ村々名主組頭相改右同様書付可指出事
    十一月
       覚
田畑成之儀無拠場所は、此上共差免儀も可有之候得共、是迄猥成義も有之ニ付、来春一統相改候上取訳可申付候間、兼て右之心得ニ可罷有事
別紙書付之通被 仰付候間、銘々持分田地無相違様相改、帳面可差出候、田畠之儀ハ来春改被仰付候間、其旨相心得組下之者へ不洩様可申聞候   巳上

    亥十一月十一日       藤五郎 印
                  藤太夫
 
 潰れ式跡へ二、三男別家(新宅)を奨励した。その選考は名主・頭等があたり、働き者、善行者を必須条件とした。
 
   ○明和五年五月 猪鹿打ちにつき申渡
 
一 猪鹿壱ケ年ニ五つ以上打候者ヘハ御褒美可被下候事

一 猪鹿壱ケ年ニ壱つも打不申者ヘハ過料申付候、且猪鹿之防ハ等閑に致候もの於相聞ハ、吟味之上鉄炮取上候事

一 猪を打候証拠として鼻頭を取横成役へ可相納、鹿ハ両耳を可相納事

 但、猪鹿鼻耳打留時々ニ不及相納候、取揃乾置翌三月壱度ニ可相納事

一 猪鼻鹿耳を外より買納之邪曲於相聞は鉄鉋取上過料申付候事

    右之通可相心得候
      子五月
今般被 仰出候趣別紙之通村々鉄炮渡置候、猟師へ此旨急度可申渡候、随分無間違相可申付候、巳上

     子五月十四日       彦太夫 印
 
   ○ 明和五年五月 潰れ式跡へ二・三男別家奨励につき申達
 
        覚
一 近年百姓次男三男を以別家を建、或ハ一類等之潰レ跡を取立候類、何レ之筋ニも出精を以新竈を取立候者有之ハ、吟味之上其名前并配分之石高年号を記し可書上候事

一 先達て被 仰付候御条目之儀ハ勿論之義、其外何事ニよらす百姓善行之筋有之ものハ、吟味之上其名前可書上候事

右之趣村々名主并頭立候者共へ得と可申含候、但此節農事多く候間、態々召呼不及申渡候、代官所へ参候節次第ニ追々可申付候、村方より吟味書上之儀も農事之さまたけに不相成様取計り不急不怠序ヲ以書上候様可申付候

  右之趣申付不相届村方有之ハ、其頭立候役々可為越度事
     子五月十六日
 
 田の草取については特に、田稗を田の土手・道・川に捨てたりしておることは、当時も今と変りがなかったようである。同時に川狩の跡始末の問題、野菜類の小盗は見当り次第、過料をとるとの罰則を設けている。田植につき申渡しは畑作麦との関連、気象条件を加味し、誠に綿密な指示がなされている。田の草の申渡は何度もなされておるが、収穫に影響する処が大きいため特に留意されている。共に直接藩財政に響いてくることである。
 
   ○ 明和五年八月 田の草取につき申渡
 
一 ほうちと申候て当分稲の実入候節、田ノ草ヲ取候由、其実之落こほれ不申様用心致、空地を見計ひ捨可申候、田ノ草を縄手ニ捨、又ハ用水之辺ニ捨置候得ハ、其実下之田ヘ流入明年田の草多く人手間費候由、以来相互申合自他之障ニ不相成様取捨可申候事

一 やき米之義費成物ニ候得ハ、少々つき候て田の神へ備へ家内計ニて相用候儀ハ各別、隣家并一類中取やり之義相互ニ堅仕間敷候事

 右之通可相心得候、以上        小左衛門
       子八月三日        藤五郎
                    藤太夫 印
 
   ○ 明和五年八月 田の草・川狩の跡始末につき申渡
 
        覚
一 村々ほうち田草之儀、此間御触有之処、名主之下知不行届儀と相見、田草を猥りニ捨置候村方も有之由、相聞へ不届至極ニ候、少之事たり共、上より之御下知不相用ものニおゐてハ、当人ハ不及申名主迄咎メ申付候間、猶亦組下へ急度可申付候、不相用者候ハヽ可訴出来

一 川狩遊に溝堀小流をとめ切、干田へ水をかけ其儘ニて捨置、持主共迷惑致候所も有之段相聞へ候、少之間殺生致候ハヽ其跡を急度相直し田方の障り不相成様可仕候、此後猥の者相聞へ候ハヽ可為越度事

一 村々ニて作物野菜類之小盗致候者之有ハ、其所ニて見当り次第相応之過料を可取之、若及異儀候ハヽ可訴出候、無異義過料銭差出申わけ致候ハヽ、軽キ事ハ不及訴其通ニ可相済候、女小児たり共小盗の筋見届候ハヽ、相応之過料可取之候、見のかし聞のかしに致置、外より相知レ候ハヽ急度咎メ申付候間、右之趣可相心得候

     子八月十二日                巳上
                    小左衛門
                    藤五郎
                    藤太夫 印
 
   ○ 明和六年五月 田植につき申渡
 
        覚
一 田植之儀五月中之節前より中之節を考へ肝要と掛心可申候、其間ニ後レ候者も中之節より十四五日之間を手廻シ致、且蒔植作切り等其時節を不違成丈出精致、名主組頭等を初、村長の者共無私致差図、其坪其隣村申合不手廻シの者ヘハ随分力を添何事も相直シ助合候て可働候

 当暦
   当月十八日   五月中の節也
   六月三日    六月節なり
 此二ケ月年中の要月ニ候ヘハ女童迄も尽夜不可致油断候事
一 田植仕付廻り見分之者前々ハ遅く相廻シ候得共、今年より六月節ニ入候ハヽ、早速ニ差出惣村相廻シ候、其節迄に後レ候ものハ人別ニ其訳を尋、帳面ニ記し置候間兼て其旨可相心得候

一 田植仕廻、或ハ其前後手透を考へ、天気の晴を見合セ早々ニ畑作の手入一日をあらそへ草ぎり等可致候、五月ハ雨天多キ時節故壱番切りを一日後レ候より、雨ニてもふり続キ候得ハ大キ成後れと相成、扠又悪草のことことくはびこり候時節故、わずかに二三日おくれ候ても間掛り多く、段々秋迄不手際のもといと成、且、こやしの気を草に取られ、旁以不宜敷候、依之畑作之初の手入無油断成丈の骨を折出精専要ノ事、右之趣ハ何も農家の業にて人々存知の前にハ候へ共、世の中愚成者も多く、或ハ年若もの婦人抔ハ其道理を不弁、時節季行の考へに疎きものも多く可有之候間、名主并頭立候者共より委敷申聞セ村毎無油断様ニ取計ひ可申候、扠又暦の季ニ不寄草木の芽立花咲、或ハ麦作等の出来立抔ニて諸作の仕付心覚致シ居候老農も有之由、尤可然事ニハ候得共、当年のことく不時ニ寒気立帰り、四月に霜降り候類の節ハ其節あやまりも難計候、何ニても作を急キ候方ハ益多く、作に後レ候方ハ損多き事人々存知之通りニ候間、此節より別て油断仕間敷候事

      丑五月六日
   別紙御書付之趣村々承知可仕候、巳上
      五月七日         作左衛門
                   小左衛門
                   藤太夫 印
 
○ 明和六年六月 田の草につき申達
 
        覚
一 田之草取之儀ハ植付より廿日ほとニて一ばん草をとり、土をかき立苗の立根に陽気を廻らし、又二番草、三ばん草迄も段々間もなく取尽シ候得ハ、こやしの気つよく苗さかへ人の手かゼもやしないと成り、秋のミのりよろしき道理ハ人々存知の事ニ候得とも、其村ニより其人ニより間々ニハ疎略ゆたんの義も前々有之段相聞候、名主并村長のもの五人組之者とも随分心を添、ゆたんそりやくのものヘハ異見を加へ差図をなし無拠わけにて、不手廻りの者ヘハ力をそへ互に助合田の草取之義おくれざる様ニ可致候、且畑作迄も互ニ助合、先達て御下知之通、村内和順むつましくかせき候儀専要之事

一 セき堀川狩夜ぼしなといたし用水をさまたけ候儀、決して仕間敷候、其外水のかけ引等人の難儀ニかまいなく、自分勝手之気随をいたし猥の者有之ハ急度相糺シ可申付事

 右之趣組下へくわしく可可(マヽ)為申聞候、もし不行届村方有之ハ吟味之上可為越度者也
     丑六月十五日
                   唯右衛門 印
                   小左衛門
                   藤太夫
 
 旱魃のための雨乞奨励の達しがなされている。両社、帰一寺の御祈祷、村方では小手野へ登り雨乞をする等、旱魃のため田植できかねる場合の対応が示されている。
 
    ○明和八年五月 旱魃につき雨乞奨励の申渡
 
一 当年ハ別て之旱魃、上よりも度々為雨乞御祈祷被 仰付候へ共、葉しふひ位之雨ニて水ニ成事無之、日増ニ致減水、此様子ニてハ畠作等迄日かれに相成可申と気毒至極ニ存候、右ニ付て御堀廻りニてハ於両社帰一寺御祈祷、村方ニてハ小手野へ登雨乞候筈ニ有之候、其村々ニても雨乞之心得有之可然事也、且又我等存寄之儀有之候得共、是ハ取計置追て可及相談存候、巳上

      五月廿二日          林右衛門 印
 
   ○ 明和八年五月 旱魃のため田植出来かねるにつき申渡
   当時旱魃ニ付田植付兼候村々多ク有之候ニ付、
   左之通申付候
 
一 此巳後雨降水出来候ハヽ、土用入迄ニも仕付可相成場所ハ随分仕付候様可心懸候

一 此以後大かひ雨降候ても植仕付可相成兼所ハ、名主并百姓能々遂吟味何成共勝手次第畠作仕付可申儀

一 右畑作何ニても仕付候場所ハ、秋中見分之上百姓之いたしに不成様御取ケかろく可申付候、尤三品共ニ構無之候

右之通名主百姓寄合遂相談、吟味正路ニ取計可申候、若私曲之義も相聞候は、急度御吟味可有之候条、其旨可得相心候

     卯五月廿八日          唯右衛門 印
                     藤太夫
 
 田(畑)三品差免については、不作の打ち続きにより実施するものである。(三品とは、大豆・煙草・芋他)
 
   ○ 安永九年正月 田畠三品差免候につき申渡
 
一 近年打続不作ニ付、田畠三品当子年より寅年迄三ケ年差免候間、其旨相心得候様持主へ可被申渡候、以上

 
 別段の違作で難渋しているので、年貢米三分二籾を、三分一に慈悲によりするというのである。検見人の賄は簡略にする。
 
                     金右衛門
   ○ 天明三年九月 検見役人廻村につき申渡
 
一 近日検見可令出村候、然ル所当年別段之違作ニて村方難渋令推察候、依之左之通御慈悲を以被仰付候

一 検見人数賄之儀は御台所より米味噌持参賄役召連候間、村方ニて汁の実野菜等少々心懸候計ニ可得相心候

  但、昼食之節、賄味噌計ニて相済候事
一 年貢米三分二籾納被 仰付候、三分一米ニて上納可致候、尤籾拵等念入候様可申付候

一 違作之田ハ稲苅取不申、例年見分ニ入候様相聞候、歩立ニ致置候ても不苦候間、稲出来次第苅取可申候、其上麦蒔等随分早ク仕可申候

一 下札之儀、例年之通内検見之上反畝歩位免付等可遂吟味候

一 村方役介ニ付、検見役人供廻り等令減少候

 右之通組下之小百姓迄御慈悲を以被 仰付候間、可為申聞候、以上
                   藤助
     九月廿五日         五藤次 印
                   金右衛門
 諸年貢上納の日限時間が、定められている。当夏は旱魃により、田植不能、空き畑が、多いと村方から聞いておる。この備荒対策として作付区分等について、明細な指示がなされている。
 
   ○ 明和六年十月 諸年貢上納日限につき申渡
 
      諸年貢納方覚
一 夏成金納         六月十日 同廿五日
一 秋成金納         八月十日 同廿五日
一 暮成金納         十二月七日 同廿日皆済
一 米方十一月晦日限り皆済之事
   但、無拠金納者 十一月十日 同晦皆済
一 小物成之儀二月中定役相廻勘定之上納方渡方日限相定可申候
 右之通日限無相違朝五つ半時会所へ持参可相納候也
    丑十月十三日
別紙之通諸年貢金納日限被 仰出候間、向後平日納ニ不及、右日限会所へ持参可相納候、尤書附写留置無相違様可相心得候

                          以上
     十月十三日       唯右衛門 印
                 小左衛門
                 藤太夫
   ○ 明和七年閏六月 旱魃につき備荒奨励申渡
 
        覚
一 当夏旱魃ニ付不植付田并多葉粉抔植付兼、明キ畑多く有之村方も相聞候ニ付、左之趣及差図候

一 田畑共ニ其地味を考へ蕎麦大根蕪菜水菜之類多作り可然候、右ニ付てハ種多く入候て、貧民不用意之者及力間敷候間、名主頭立候者并働有之者共打寄令相談種物之才覚致、其人々持分相応ニ貸渡候様取計可然候、蕎麦種貸候者有之ハ、名主聞届証文ニても為入置、当秋出来作ニて無相違返済可為致候、菜種大根種之儀ハ世話一通リ之儀ニ候間、貰集候て成共割渡可然候、極貧之者抔ハ右種子物之才覚ニ指支居り候内ニ、其時節後レ可申儀ニ候間、村々早速より遂相談、貧民之内証を相糺シ差支無之様名主并頭立候者共助成可致事

一 田畑共多く残りたすけ少く蕎麦大根作り兼候貧民ハ、菜を多く蒔付可然候、菜ハ生立候より段々取用ひ、秋冬ニ至リ切干掛干ニ致たくわへ置、来春夏之夫食を助可申候、秋ニ至リ少々水入之地ニても水菜ハ用立候物之由ニ候間、其心得可有之候、惣て農業功者成者より未熟之者ヘハ差図をなし、田畑一作むなしく捨り不申様力を添可申事

右之一件ハ差図迄も無之様定り人々心得有之儀ニ候得共名主并ニ頭立候者共不実ニ候てハ一統不行届儀も可有之哉と、其程難斗候ニ付及差図候、尤右之外ニも宜存付了簡も有之ハ何分勝手次第ニ取斗別て伺等ニ不及候事

但、志シ宜種子物等貸施シ村方之助ケをなし候者有之ハ其名前等追て可申達候

 別紙之通村々名主心を付不益無之様随分可申付候、巳上
                     唯右衛門
      寅閏六月廿二日        小左衛門
                     藤太夫
 
 全国的に、天明二年より六年迄凶作で、有名な「天明の飢饉」となったのである。従って天明四年にも田植不足がみられ、苗の余ったものは、不足者に植えさせ、田植の出来ない田には稗を植えさせ「明和四年五月田植え苗に付申渡」と同様の、備荒策がとられている。
 「異常天候につき備荒奨励の申渡」・「日乞ならびに五穀成就祈願につき申渡」も、やはり同様のものである。黒羽藩内にては天明二年と三年の二ケ年が、最も凶作が甚だしかった。
 
   ○ 天明三年八月 異常天候につき備荒奨励の申渡
 
        申渡覚
今年夏中より暑気よハく、長雨冷気打つゝき諸作不宜候由、第一稲穂出おくれ、時節を違ひ候よし、如此不順にてハ実入之程甚無覚束儀、扠又諸国ニおゐて山津波洪水、或ハ土砂ふり田畑皆無人馬おひたゝしく死失、前代未聞と可申ほとの大変、追々相聞驚入事共に候、如斯天変発り候てハ、此上いかようの義にて飢饉に可及も難計、可恐時節ニ候得は村々ニ於ても別て相慎ミあしき風俗をあらため□(虫損)遊深酒等之□ハ不及申、惣て奢り怠り無之様人々心かけ倹約を肝要に相守り食品[  ]宛も喰迚、うへをまぬかれ[  ]に勘弁可致候事
一 兼て天変きゝんを恐れ、倹約を忘れす奢り怠り無之様、明和七寅年七月村々へ申渡御触有之候へ共、愚昧之者多く大変飢饉なとと申儀、当面無之むかし語り之様ニ心得、御慈悲之御下知をも等閑ニ承り農業麁略いたし、身楽の奢りを好ミ金銭にのミ心をよせ、或ハ深酒、或ハ不行義の遊興ふつゝか[  ]有之由、名主頭立候者共之段々怠り、組下尊き教之[  ]も近年ハ別て不行届趣之村方も間々相聞、不届之至ニ候、然所今年諸国近隣迄段々不[  ]之大変発り候儀前条之通故、諸家におゐても兎角心有之義と相見、倹約之御下知又は穀とめ等之沙汰も相聞、扠又上方より江戸表迄当春以来米穀至て高直之次第人々承知之儀に可有之、これを以て世上一統米穀払底之趣弁へ知るへく候、此上ニ又々長雨大風大霜等不時之大変発り候ハヽ、何を以て身命をつなき可申哉、諸国一統のきゝんと申時節に至候てハ、金銭を以て身命ハつなき難く候間、兼て此儀を慮り恐れ慎ミ田畑を尊ミ食品専一に心かけ、麁略油断之儀仕間敷候事、東郷山間之村々はワらひを堀候類之儀、又ハ明キ畑へ菜を多く蒔付冬春の食に心懸候類之儀、此節専ら怠りなき様女ワらべ迄も為申聞、日々相応之かせき為致怠り候遊民決て無之様、名主を初め頭立候者共心を尽し取計をしへいましめ可申候事

右之通、町方村方共ニ不洩様可為申聞候
  若此上不行届等閑之儀於相聞は可為越度者也
      天明三卯年八月
 
   ○ 天明四年四月 田植苗不足の儀につき申渡
 
      覚
於村々当年苗代違苗不足ニも可有之哉相聞候、右ニ付其田之植残有之候、苗がこい置不足之者へ植させ可申候、且村毎吟味之上稗苗心掛置候様可申付、ぬかり田之分ハ稲を植候、そへ田を拵稗を植候て宜之由に候得ハ、随分心掛置ぬかり田を跡へ廻し田植仕とひへを植候様可仕候、以上
    四月十九日           藤助
                    五藤治 印
                    金右衛門
 
   ○ 天明六年七月 異常天候につき備荒奨励の申渡
 
当夏暑気弱く、土用入候ても今以陰気勝ニて甚不正に候得ハ、当秋諸作実入之程無覚束誠可恐事に候間、大根并菜之類を多く蒔付之儀、人々力の及たけ随分出精いたし、時節におくれす怠り無之様可申合候、猶又病身かたわものなとヘハ組内近辺手廻し宜者共、心を添右蒔物等助力候様、是又可申合事

一 去ル卯年凶作より辰之春迄大変世上見聞之儀を忘却不仕、天変飢饉之儀を恐慎ミ遊随深酒等不及申、惣て食物之費無之様人々心懸倹約を専要に相守り、凶作之節に至候ても飢をまぬかれ候様に勘弁可致候

右之趣去ル卯年八月委細に相触置候得共、愚昧之者多く相聞候間名主并頭立候ものより懇に教聞セ可取計候

      午七月
 別紙之通御触書出候間、組下小百姓迄委敷可被為申聞候
       七月六日             七郎兵衛
 
   ○天明七年六月 日乞ならびに五穀成就祈願につき申渡
 
       覚
土用明ケ候ても、日々くもりはれかね候ニ付、日こい并五穀成就のため帰一寺へ御祈祷被 仰付、村毎御札可被下置候、此旨相心得村々猥成儀を相慎於其所信心可仕事
右之段組下無洩可為申聞候
     六月廿五日           五藤次 印
                     甚蔵
 
 未だ天明の凶作の影響が消えない時に、既に一般に奢多の風がみられ始めたので、婦人の衣類の華美の取締り、越堀を始め近辺の駅場の飯盛下女を募ったものに過料を科し、厳しく申渡がなされている。
 
   ○ 天明八年二月 風俗取締につき申渡
 
一 明和五子年御改御下知被 仰付候砌、人々分限をわきまへ奢りを慎ミあしき風俗を相改候躰ニ有之候所、近年ゆるみ候内別て婦人の衣類帯等ニハ上品目立候品を相用候者も有之付相聞不届之至ニ候、殊ニ此節江戸表、公儀ニおゐても花美奢之筋堅く相慎候様、高貴之御方様迄専々御教等も被 仰出候、御時節をも不恐慎甚之心得違ニ候間、向後花美奢り向之品物不相用候様急度可相慎候、是迄之儀捨置候得共、若此以後不相応之品相聞へおゐてハ吟味之上咎申付候条其旨可相心得候事

一 此度越堀駅并定介(助)郷之村々へ被 仰付候
御書付之写別紙之趣名主組頭并頭立候者共奉承知、越堀ニかぎらす近辺之駅場ニおゐて飯盛下女遊随相募り候者、於相聞は重き過料申付其上吟味之筋ニより厳科ニ可処候条、年若不行儀之者共ヘハ別てくわしく為申聞、向後之儀急度為相慎候様実意ニ取計可申候事

 
 天候不順につき、煙草・木綿栽培制限の申渡しは、兎に角凶作で困り果てゝおる折柄、凶作の様子がみられた場合は 菜・大根の種子、蕎麦の種子の、準備をしておきたばこ・木綿の作付を減らし、食品を専ら作るようにせよというのが、その趣旨であり、天明二年・三年の気候不順の状況、浅間山の大噴火による焼砂が降った模様、米が払底したので、遠くまで米買いに行く状況、奥州・黒羽・大田原の米その他、価額の相違、諸国の餓死人の状況、その他当時の世相が詳しく記されている。
 
   ○ 寛政八年正月 天候不順につき煙草・木綿栽培制限の申渡
 
     覚
旧冬十二月十五日御触出之条々、町方村方可奉承知儀ニ候得共、大勢へは行届兼等閑ニも可相心得哉と、又々再応左之趣為申間置候間、村方町方名主役人頭立候もの共、誠精取計教置可申候、為其去ル飢饉年前後のあらましを左ニ認候

一 天明二寅年十一月迄ハ差たる天変も無之候処、十二月に至リ寒気和キ暖気追日募リ、氷り悉く解、折節の雨夏雨の如く、或ハ雪交候ても降りなから消つもる事なく、春分過の雪のことく、十二月十四日に至り雷声、雹□夕立ていの雨降り、其後猶又暖気に相成、益々霜氷りなく春半はを過候躰にて終に立春に移候、寒中なから暖和、数日の事故日向へは筆等(土筆)を生し候所も有之由、是前年より翌夏の凶作大変のきさしをあらわし候事と其節思ひ当り候事

一 天明三卯年春に移り、余寒強く正月十九日より廿日まて雪降り旧冬曽て無之深雪にて、其後弥余寒強く厚氷はり、或ハ雪ふり甚敷余寒に候処、二月に至り一向雨雪不降三月三日に至り強雨夏雨のことく、同十三日雷声風雨、同廿二日夜雷声強雨、同廿六日夕雷声大雨所により氷雨ふり候由相聞、四月ニ至り二日雷声、同三日雷雨、同七日雷雨、同十日雷雨、同十四日雷強雨、同廿七日雷雨、五月に至り雷雨なく、廿八日暁砂の如く成もの降り草木青葉の上に掛り大霜のことく見、右之通春より初夏まて雷声強雨甚変異の気候なから麦作ハ相応の実入にて常のことく取納候由、然ル処五月より六月に至り陰気多く度々雨ふり冷気打続、六月五日ハ別しての寒冷身に入候処、七日に至り俄に暑気強くおよそ其夏初ての暑気に覚候得共、又十一日より冷気行れ、同十六日十七日ハ冬の如く衣服を重ね火を寄候くらいの儀、同廿日より土用入候て折節ハ昼の間暑気有之候得共、夜々ハ冷気にかへり雨なき日ハ稀の事にて七月に移冷気弥増残暑なく、同三日暁砂のことくなるものふり、同七日暁より朝まで雷の如く震動有之、同八日同様の震動有之、同九日より冷気、同十三日より冷気弥増日々に雨ふり衣類を重ね冬の如く、同十九日雨に砂交り降り、同廿一日まで雨降続、同廿二日に至り漸天晴残暑、同廿七日まて暑気有之処、又廿八日より冷気雨ふり、八月に至り寒冷弥行れ、或ハ四方の雲霞のより九月下旬に至るまて晴天稀にて雨日毎に降り二百十日にあたり候日より、大風吹出二夜三日風不止、依之田畑の穂色甚あしく第一稲も立穂の多く、たまたま実入の米も味ひ薄く臭気有て至ての悪米也、依て日増に米穀払底諸人飢を凌かね、葛わらひ野老の類を堀、其外種々の草木葉をつミ根を堀候ても食とほしく成行、其上諸所の御城下御居所下、凡近国無洩町家におゐて穀止メに相成、一向に食物通用必至と無之、御同領の者にても容易に米穀を調候事過分にハ不相成、其村の名主役より証文持参にて証に壱軒の者へ買米代銭二三百文分ならてハ不売渡候故、遠近日々に穀屋へ入来て悲ミ歎候得共、一方へ多分に売渡米穀早々手切の節ハ外より可求術無之事故、不得止事、微少に商売可致旨御下知も有之、其後次第に諸国の米穀価引上け、奥州南部津軽□辺までハ代金壱分ニ付米弐升八合位之田、会津米沢辺にてハ金壱分ニ付四升八合位、越後についてハ七升位常州辺四升五合位と取沙汰相聞、黒羽大田原直段左之通

 一 代金壱分ニ付 米七升五合位
 一 同断ニ付   粟稗六升五合より七升位
 一 同断ニ付   白麦九升八合位
 一 同断ニ付   大豆壱斗弐升五合位
 一 同断ニ付   小豆八升四合位
 一 同断ニ付   から麦壱斗四升位
 一 同断ニ付   小麦右ニ同
 一 小麦挽かす  代百文ニ付弐升八合
 一 稗ぬか    壱俵代八百文
 一 大根壱本ニ付 代拾六文より弐拾文位
 一 大根干葉一連 代四拾八文
右躰の高値仏底不通用なる世の中ゆへ、諸国におゐて餓死人幾計 共計りしれさる事之由、又離散の者も数しれす、或ハ飢を凌かね首を縊、川堀へ身をなけ井中へ飛入親を捨、子を捨、自殺の者も他境にハ有之由、或ハ小児飢て母の乳房を喰切狂乱の躰に成候者なと有之由、或ハ牛馬犬猫の肉も食候所有之由、種々驚歎れ成取沙汰人々聞伝可覚居事共也

 
翌辰年の春に至り米穀弥減少故、農民共心得違、米商人共己か利欲のために如此米穀を減し〆売にも致候哉と邪察疑心をなし、村村徒党を結ひ、大勢騒立町家へ押寄穀屋を潰し乱法のあばれ言語道断の事共国々諸所限りなく相聞、或ハ追はき強盗押うりの類是又あけてかそへかたき騒乱人々聞覚可有之事ニ候

但、 御当領之儀ハ町在共ニ人心静にて右躰の乱法を慎ミ候儀、上之御仁恵を不忘実義を守り世上におゐても賞美有之由、扠又辰年夏より冬に至り疫病多く天(流)行り、或ハ腹はれ面腫種々難病発し此ために死人多く相聞、是ハ全く飢饉非常の食物より発候事必定也、然ル所其年ハ天気順に復耕作実入相応にて世の中少ハ穏に、成行候処、又翌巳年夏冷気不正にて凶作と成、又午年に至り天気甚不正、卯年に類すべき凶作と成、未年の春に至り食物とぼしく及大難候儀、卯年同様之事ゆへ略々、もし天明三卯年より同四辰年へ二ケ年続の凶作に候ハ丶、上の御救も難届友救等の術も尽候て、非常の死を可致者いくはく可有之哉、辰年相応の出来作にて大難をまぬかれ候事ハ天の助ケにて候、是を慮り候てハ誠に天地の変異計、至て危く、至て可心事ニ候、かほとに危くおそろしき事をわつか十ケ年立やたゝさるに皆人忘れ、近年ハ別して衣食の奢り弥増深酒遊興に金銭を費し朝寝昼寝をなし、家業に怠り身楽を好ミ候悪風俗と成行候事、皆天道人道に背き候事ゆへ鬼神ここに怒り、終に天罰来るへき哉、又旧冬の気候天明二寅年の冬に全くひとしく寒中甚寒なく春半ばの如くにて立春にうつり候事ハ、可恐の甚敷に候ハはや、先達ても御触有之候得共、愚昧不実の者ヘハ耳口も入かね行ひも不改、いよいよ天罰を重ね非常の死をもいたすへき基にもあるへき哉となけかわしく再応教に申付候間、村々におゐて此書付の趣くわしく読聞也、春先より専ら心を用ひ飢饉の患ひをまぬかれ候様に思慮いたし、農業蒔仕付其時におくれ不申様第一に出精可致候、天明三卯年にも農業無怠早く植付糞手入宜いたし候所ハ、弐分三分四分位の実取有之、遅く植付手入おくれ候所ハ、丸に皆無之由人々目前存知の事ニて候間、決て油断仕間敷候事

一 菜大根の種子を多く取置、若凶作の躰を見届候節ハ、菜の類を多く蒔付候義第一の術に候、土用後に至り候てハ菜大根の外ハ蕎麦ならてハ無之候間、右之種子物等之儀も春より専ら心掛可致事

一 上之庄におゐてハたはこを多く作り金銭を手取候事のミを専ら心懸、其村へ金銭の通用ハ古へに倍増いたし候事と相聞候得共、困窮人ハ却て古へに弥増候儀、何めへなれハ世の風俗次第に奢り男女髪のかさり家居のかさり食の上品に成行候事も古へに倍増し、金銭ハ皆衣食住に散安く、又ハたはこの払を引あて前広に借金いたし、或ハたはこ中買等商人躰の身楽を好ミ、終にハ借金借米増長にて、身上難立竈を潰し候百姓少からす其害あげてかぞへかたく智有者共ハ弁へ知るへき事ニ候、人間世界身命の掛る所大切至極の大本たる五穀食品を麁略いたし、たはこに見替候儀ハたとへ一端の利潤有といへとも終にハ鬼神の可憎所、天罰を蒙るへき道理に候間、向後たはこ作之儀ハ分量に随ひ了簡いたし、五穀類の障に不相成様勘弁可致候、別して当年之儀ハ前条之通陰陽不順の気候、旧冬にあらわれ一大事の用心に候間、たはこを減し食品を専らに作り候事、無怠出精可致候、たはこの金銭を以身命をつなき候事ハ不相成儀勿論に候、尤たはこ之儀ハ其村により候事にて一統にハ無之、且下之庄におゐてハたはこ作無之間、木綿を専ら作り候由、是又たはこの利害に可准義ニ候間、其心得を以勘弁専要の事

    寛政八寅年正月
(黒磯市寺子 熊久保康正家文書)

 
 増業が増陽のあとをうけて、藩主となった時に一般の農民と町人に、その守るべき道を懇切丁寧に説いたものである。
 
   ○ 文化八年十一月 農民ならびに町人共へ仰渡
 
     農民并町人共へ
 右農民町人共に此趣、必背へからす、若背ものあらは厳罪に行へし

村々之名主并五人組ハ、多人数の百姓の上に立、下を治めて農民を安堵させ、難義困窮セぬ様に耕作に精を出し、風俗之悪からさる様に導き、鰥寡孤独の寄所無之窮民をハ養育して仮初ニも下民を不悔、下情を塞事なく、無理の役咸を以、農人を不押付様に相心得、一村中打和して百姓共の風俗宜敷成り、荒地も発起する所を第一に工夫を思へし、上之法度を蔑如スす、奇特之者八十以上之老人抔をハ随分憐愍を加へ飢寒に不苦様にすへし、必農人の町人の如くに不相成様に、是又心を付、依怙贔屓之心なく、有躰に可勤、若百姓所を不得立のき、或ハ居なから商売の風に相成ハ、名主等大罪也、外村々に如此不心得之名主五人組等あらハ可申出候、又其身一分之栄華持楽を専にする者あらハ相糺候上ニて、其罪に罸へし、百姓之物をかすめ取ハ言まてもなく、大悪にして其罪甚重しとす、是故名主等自身として踏込ミ務て百姓之手本と成り耕作を出精すへく候、其所を専心得宜ハ恩賞あるへく候、必疑事なく私を離れて一筋に国中之農人の安穏に成り、困を助る工夫あるへし、町年寄之者も、大凡在と町家の別ハあれとも、心得之同前たるへし、実上下共に人の上に立ものハ、火之中へ入心得になくてハ不成事也、猶帰邑之上万々奉行役人を以申へく候

    文化八辛未年十一月廿八日
(黒羽町蔵 『創垂可継』四十三巻)

御先代御多病に被成御座、年来、思召も有之候処、其御ひまなく年月を送給ひ、終当年ハ御隠居思召立、我等に家督御譲被成候に付、深き御心を以今度我に被 仰付は、領中民百姓之上に居て汝等を慈し思てあからしむる様にと難有思召を受てハ、汝等も数代領中に父母妻子を飢〓させす、孫や曽孫の栄暮事も全く御領主の御恩厚なり、我も不及なから、其御跡を今度継てハ国の宝とすることハ、汝等を捨て外に我か宝とする物ハなし、此故ニ汝等各心を誠直にして天満宮の御願をハしり候ものもあるへし、心たに誠の道に叶なハ祈らすとても神や守らん、此御哥の心持を早く見よ、心たに誠なれは神や仏を不祈とても、神仏の御守被成候と申事也此も心計にてハ何事も出来ぬものなり、随分と田畑のつくりに精力をいれ、父母子や孫を随分大事に養育してそたて国中の人民多く成様にいたさハ自然と荒地もなく親類多き時分ハ、各助合自由なる故必子を間引抔申事ハ不可致、若家内多くなり困窮せハ、疾く/\名主又郷奉行まても可申出候、第一荒地を取立へくとも、耕作を出精し、年貢とゝかうらす荒地取立之分ハ、十年ハ無年貢に申付、汝等の子孫を養たよりにせん、然は植付の時を不忘、秋の苅時を不延、農人ハ仮初にも商人之風俗悪しく農人として町人をまねるハ心得違なり、自分の務に力を入、出精セはほめて遣スヘし、若又精出シても其しるしなけれハ天を恨ミな、奉行役人をうらむ事なかれ、皆領主之罪なれハ、我等に罪をおほふへし、然は奉行役人の依怙贔屓等あらハ、忽に可申達候、今よりして実に汝をハ我か子の様に存るから、汝等も又我を親と思ひ遠慮なくせよ、博奕盗賊人を殺抔の事ハ、以前/\より皆々存通の悪業にして、此三ツをする者ハ、公儀の御大法故悉く罪すへし、逐て汝等の困窮と耕作さへ精出セハ、いか程も助て可遣候、一分を不動して、上を恨むハ非道を申て、神仏も人としたまわす、其心にてハ、たとへ領中を出て外の所へゆきたりとも、自分の身の上の事なれハ、のかれかたく、終にハ神仏の祟を受へし、可然々々、無程帰邑もいたしたらハ逐々、汝等の精出之所も見るからに、今より其心にて出精して楽まつへく候、又奉行役人共へも汝等に向き、無理をセぬ様にと申置へし、安緒いたし男女共に家業をハけミ、国の為なる事、存付ハ可申達候、それとも己々かつてのミの事ハ、其手筋を以て申出、尤 公義より之御制札は勿論国法を不背、今日を安隠にすへし

一 町人ハ百姓と違ひ居なから商売する物なれハ、自然と奢る心も出来、それからしてハ、高利の品を買入るにより、益困窮して、それを買者も、又困窮いたせハ、兎角田舎有合之物を売物を売買いたし、質素に心得、一町中の風俗宜しく高利之品をうらすして、金銀の貯ある様にすへし、其外父母妻子にむつましくセよ、家内中宜しからされハ、必其家ハ治まらぬもの也、随分油断なく上よりも見て心得よき者にハ賞を遣し、不心得にして国法を破る者にハ、罪をあとふへし、博奕盗賊人を殺様之事ハ、前々より不知者もなき悪行にして罪人也、扠又、理不仁之事ニて喧嘩之者は仕懸候方罪なり、実躰に家業を出精セハ、此に過た安楽ハあるへからす

 以上は「宝暦元年~寛政八年郷方取締法令」・「文化八年藩政改革につき大関増業仰渡書」・を、県史より、特に農業に関係の深いものを抜粋したものである。
 藩政の窮乏とその改革の仕法が、農業の面に色々な形となって反映されているのがよくわかる。本当に手に取るように、事細かに指示されているのが申渡の特徴である。
 特に不作に対する対策、日常の農業のやり方、「田の草取り」、「田植について」については、苗の確保等が重要視され、絶えず申渡されている。「旱魃につき備考奨励」、「旱魃につき雨乞奨励」、「異常天候につき備荒奨励等」は凶作に備えての施策であり、鈴木武助の飢饉対策の思想が根底をなしておることがわかる。「農民ならびに町民倹約・出精を説き専ら朝から晩まで働くことを要請している。
重要な財政源である町民、百姓対策については、藩においても誠に真剣に当たっていた。