三 特用作物

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○「たばこ」 たばこは隣町の武茂の庄、藤沢地内の香林寺の住僧、相阿和尚によって、元和二年(一六一六)の春初めて栽培されたが、馬頭、大山田方面に普及していった。その後増々栽培が盛んになり、水戸藩においても大いにこれを奨励するに至った。(『たばこ創栽と相阿和尚』野口青眉著書)幕府は、慶長十三年(一六〇八)・同十五年(一六一〇)たばこの禁煙・売買・耕作の禁止令を出し、続いて同十七年(一六一二)一層厳しい禁止令を発布している。それでも実績があがらなかったため、元和元年(一六一六)二代将軍秀忠によって、その売買・耕作が厳禁された。その後歴代将軍が禁圧を加えたにもかゝわらず、一般の嗜好の風潮には抗することができなかった。遂に八代将軍吉宗の殖産興業政策によって、農民の収益増加のため却って奨励されるにいたり禁令は解除された。たばこについては、以上のような経過があった。黒羽藩は大山田と近隣にあり、須賀川・須佐木方面から栽培されはじめたものと思われる。そして藩内に普及していった。たばこは重要な藩の財政源であったので、重要視され田畑三品の中に数えられている。
○「漆」 漆も大切な生産物であったため、藩としては申渡により漆苗木の仕立方について力を入れその増産を計った。
   ○ 宝暦三年四月 山漆めかきとり停止につき申渡
 
     覚
山漆之事ハ前々より御下知有有之候所、近年ミたりニ山うるしのめかき取候様ニ相聞へ候、此度急度御法度ニ被 仰付候間、以後山うるしのめかきとらセさる様に下知可仕候、此以後山うるしのめをかき取候もの有之ニおゐてハ其所支配之山守名主迄も越度たるべく候、尤後日ニ人遣シ令吟味筋も可有之候
    宝暦三年酉四月十六日       長右衛門
                     安左衛門
 
   ○ 宝暦三年五月 山漆仕立方につき申渡
 
     覚
山漆切候儀前々より御停止ニ候処、近年猥ニ切取或ハたすけニ致候ため葉をとり申候段相聞候、向後左様之義無之、草苅敷場之外柴之内へもかりまゼ不申、大切ニ仕立可申候
右之趣組下へ可申付候、以上
    酉五月十一日          藤太夫 印
                    数右衛門
 
  附
漆若木仕立置候所、尤漆ノ木数無之場ヘハ当年ハ下役不遣候間、其村名主見分之上実有之候ハヽ取らセ御台所へ可差遣候   以上
   酉九月廿九日           長衛門
                     安左衛門印
 
   ○ 宝暦三年九月 漆植仕立につき申渡
 
     覚
先達て郷奉行中より被相触候通リ、当年より里漆植仕立并山里漆之実取納共ニ我等方より申付候事、其旨可相心得候、委細ハ下役茂太夫可申聞候

一 里漆植仕立無油断可申付候、但生立候ハヽ木数五分通可被下候間、随分可致出精候、尤村々苅敷山草かり場田畑ハ不及申相障り無之場可致吟味候

一 里漆之実為取納之下役茂太夫村々相廻り候、百姓持分貫目次第ニ取納追て割合其代可被下候間、其段可申付候

一 山漆之実取納も只今迄相納侯より外ハ、重てハ人別ニ割合其代可被下候、兼て左様可相心得候

一 里漆なへ望ニ候ハヽ可遣候間可申聞候

 
   ○ 安永六年三月 漆苗木植仕立方につき申渡
 
     覚
一 村方町方漆苗木望之者ハ沼藤五郎方へ願出苗木請取植置可申事

一 漆苗木成長之後、御買上ケ直段之内三分ハ上納、七分ハ持主共へ可被下置事

一 漆苗木植立置候ても後世故障有之、伐りからし申渡義有之節ハ、願伺ニも不及持主之勝手次第ニ可仕事

一 漆苗木請取植立枯損し多く候ても不及相届、尤御吟味見分等之義無之、其外漆ニ付惣て入用懸りもの等決て無之様可取計候間気遣遠慮仕間敷事

右之通ニ候間植場を持手くり相成候者共ハ、無遠慮苗木請取可申候、木数多相成候得は上之御為ニも宜しく且ハ自分この助成ニも可相成候間、了簡之上植場を考へ仕立候義可然事ニ候、尤押て申付候義ニハ無之望次第之儀ニ候間、其上可相心得候、以上

      三月            金右衛門 印
                    藤太夫
 
○「茶」 茶は鎌倉時代、栄西等の禅宗の僧により中国の、宋から伝えられ、しだいに一般に普及された。

(須賀川 菊池定治家文書)

 享和二年(一八〇一)にあらくを起こした(新しい開畑地)茶畑を調査した台帳で、上、中、下茶にわけて調べてあり、合計で四町八畝二十一歩になっている。なお「須佐木村高反別小前改帳」承応二年五月(須佐木戸村貞夫家文書)、これは田畑の調査台帳であるが、やはり、この中に何筆かの茶畑がある。承応年間四代将軍家綱の頃で、相当に古くから茶が栽培されていたことがわかる。
 野上村(愛吉・引橋・山之田・高戸屋・大塩・二渡)(現在の北野上北区)、では万治三子年(一六五八)の「検地名寄帳」(北野上松本巧家文書による)
 当時の野上村の田、二三町八反七畝二十三歩。畑、二十七町四反二畝二十五歩。合計六十一町三反十八歩、農家戸数は三十九戸である。そのうち、茶の反別と収穫量は次のとおり、
  上茶、一町一反六畝八歩~十三石四斗九合八勺
  中茶、  八反三畝二十六歩~九石六斗二升四合
  下茶、一町四反八畝歩~八石六斗七升

合計 三町四反八歩~三十一石七斗九升三合八勺
これは総作付面積の五十六%に当り、外の村より多く、藩の収納もあったが、農家収入に資した面もみのがせないものと思う。
○「わた」 「わた」は、わたにして使用した外に、機織りして布にし完全な自給はできなかったがその方向に進んで栽培された。野上村においても一町四反畝九歩作付されている。
○「油荏」 『稼穡考』には「油荏」とあるが、荏とは、俗にいわれている「じゆね」のことで、実を搾って食用等の油をとったもので、やはり自給程度に一般に栽培された。
○「菜種」 油荏と同様各農家に作られた。「御買上菜種送状之事」天保五年七月四日(一八三四)(黒羽向町阿久津正二家文書)にあるとおり、商人をとおして百姓から藩が買上げておりやはり一般に栽培された。
○「楮」 楮は当時の川上村・片田村・野上村、等に多く植栽され、藩においてもこれを奨励した。各地域の空地・山林・原野等に植栽されたのである。
○「桑」 養蚕は一般農家が行った。特に絹糸は藩外に移出されていた。従って堤・空地・等に植付けられ、多く行なった者は桑畑を持っていた。
○「菎蒻」 菎蒻は、茶と共に須賀川の二大特産物であるが栽培され始めたのは明らかでないが、常陸(茨城県)の保内郷(大子附近)において「煙草作付たる村々も止て、菎蒻玉を作る事になりぬ、煙草より利分多しといふ」とあるが、これが寛政年間中(一七八九~一八〇〇年)とあるから、これから遅れて保内郷より入ってきたものと推測される
 (注、煙草作付云々は茨城県史資料編の水戸藩加藤寛斎随筆による)