安政二年(一八五五)十月二日、江戸大地震によって木材の需要は増大し価格も上った。
その年の十二月藩庁は材木国産化を決定しこれまでの一切の個人取引を禁止した。
代々の藩主の奨励育成策により生成してきた山林は一転して藩の取扱下におかれ、それのみか伐木・運材までも無償の夫役が課せられ農民は苦境に落ち入った。
藩吏の米の不正取引、無尽による山林田畑のとりあげ、材木国産化による収入減、高年貢等々農民は悪政に反抗し、安政三年十一月十九日、遂に余瀬白旗山に一揆をおこし藩政の改革を要求した。本一揆は藩士側家老以下二十人以上、農民側三十二人の処分を以て一応終結したが、無体に持ち去られた山林は二度と農民の手に戻らなかった。
時の藩主増徳は一揆の処置について重臣と不和となり、文久元年正月重臣によって座敷牢に監禁され、明治に入って廃藩置県まで解禁にならなかったことは農民側にとっても慶応年間まで徳政のない受難時代が続いた。