文久元年(一八六一)大関増徳の養子となる
文久二年(一八六二)四月講武所奉行となる
五月海陸御備向並に軍政調御用となる
十二月初代陸軍奉行となる
文久三年(一八六三)五月官を辞し帰国する
慶応元年(一八六五)六月出府海軍奉行となる
同 二年(一八六六)八月若年寄格となる
同 三年(一八六七)一月若年寄となる
六月海軍副総裁となる
十二月六日帰国、九日金丸八幡宮裏で狩猟中変死
文久二年(一八六二)四月講武所奉行となる
五月海陸御備向並に軍政調御用となる
十二月初代陸軍奉行となる
文久三年(一八六三)五月官を辞し帰国する
慶応元年(一八六五)六月出府海軍奉行となる
同 二年(一八六六)八月若年寄格となる
同 三年(一八六七)一月若年寄となる
六月海軍副総裁となる
十二月六日帰国、九日金丸八幡宮裏で狩猟中変死
増裕の死因については自殺・誤死・暗殺等あるも本項には略す。三十一歳でなくなられた。