1 増裕の執政と生涯

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増徳の跡は増裕が養子として迎えられた。増裕は在職僅か七年の短期間であったが前例を廃して人材の登用、教育の振興等に尽したが、財政再建では効果はあがらず、藩士も領民も生活が苦しい時に軍備強化のみ強引に押しすゝめ資金調達の源として山林が利用された。
 文久元年(一八六一)大関増徳の養子となる
 文久二年(一八六二)四月講武所奉行となる
           五月海陸御備向並に軍政調御用となる
           十二月初代陸軍奉行となる
 文久三年(一八六三)五月官を辞し帰国する
 慶応元年(一八六五)六月出府海軍奉行となる
 同 二年(一八六六)八月若年寄格となる
 同 三年(一八六七)一月若年寄となる
           六月海軍副総裁となる
           十二月六日帰国、九日金丸八幡宮裏で狩猟中変死

 増裕の死因については自殺・誤死・暗殺等あるも本項には略す。三十一歳でなくなられた。