2 林業政策

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帰国の翌年、元治元年(一八六四)二月二十九日次の御触を出した。
(1)「一、杉桧並漆之儀は御領内第一之御国産ニ付、今般御林植付方御仕法を以て軒別壱年壱人宛当年より三ケ年之間手伝被 仰付候尤植木方より相触次第無滞可相勤

但相成丈正人ニて差出極遠在之者差支候節は壱人ニ付代弐百四拾八文迄之賃ニて差出候儀ハ不苦候、其餘高賃之者相雇候儀ハ不相成、心得違無之様可申付候、尤も昼扶持米之儀ハ被下置候、

一、売木之儀売人・買人歩合上納方是迄如何之風聞も有之不届至極ニ候急度御糺も有之処格別之以御勘辨是迄之分ハ御見済被成候、以来願之節木数・寸尺等並代金等分明ニ取調可差出候、尤売木之節御家中・町・在共売買人其所之村役人立合、山奉行並下役等見分を請、木数・寸尺相改直段相定可申候。

但売木後伐株御改被成候間、不明之儀無之様可相心得候、万一心得違有之節ハ過料として倍増上納申付候、

一、売木歩合是迄之通ニて壱割五分、右上納之儀皆金ニて山初可致候

 右之趣小前一統心得違無之様ニ可申付者也、
   二月廿九日
                        権四郎
                        重兵衛
                        文太夫  「1」
 本御触書は、代々の藩主と異なり、民林育成奨励より御林(藩林のこと)育成を主とした民林の立木売買の価格決定には役人まで立会させ、伐株の調査までしている。
(2)「町在御触左之通
一、御領中向後山賎之者数本買木申上有之候ハヽ、青木たり共、村山分ハ申立伺之上可相談候事

一、剥枯し或ハひで取候為、青木第一之松切倒し候類有之趣不届至極以後沢して不相成見掛次第取押可申候、縦令向後村用ニ致候共青木之分ハ原松細木たり共申立、伺之上可伐木候事

一、在々借用金など之為ニ田畑・山林其外地方之分他江相渡置候者ハ村々人々取調急度可申立候、隠置候ニ付てハ厳重之御沙汰被仰付候事

一、山野・川崖其外不明之持山地取有之哉ニ相聞如何之事ニ候疑敷地・無證之地取持致候者ハ速ニ申立見分を受け取持可致候、且隠置候類有之ニおゐてハ御糺之上厳重被仰付候、依之村山・御林持山等之堺急度改置可申事

一、持山・持薮村地たり共、古田畑之跡者上納之事難渋ニ候ハヽ其地差上可申事

  (差上とは藩に返納のことを云う)
一、御領中野山何方たり共下畑之上納致候者有之者場所見立可申出見分之上御渡被下候事尤当分立木之代ハ差上可申事

   但山入手遠之地所ハ下々畑年貢上納可致候事
一、田畑・山林地所等他領江永代ニ相渡候儀是迄も御停止ニ候得共、以来心得違者於之ハ厳重被仰付候間急度心得違有之間敷候、

一、椴木売木青木同様以来壱割上納之事

右御触之趣、小前一統無洩落急度可申聞置者也

   六月十日
                        権四郎
                        重兵衛
                        文太夫 「2」
 幕政時代は、土地・人民は藩主の所有であるから民有林といっても今日とは形態が異なっている。本御触の中には、民林の取扱が権利を無視して藩財政向上に利用されてきたことが伺われる。「ひで」とはランプ電燈のつく前に農村に於ては行燈の代りに利用しこれがなくては夜なべも出来なかった。雲岩寺以東南方川上部落に電燈が点燈されたのは昭和二十年以後のためにそれまで「ひで」は重用された。
(3)「元治元年十二月
   山永割合之事
   一畝歩 代三厘三分
   一反歩 代三拾三文
   一町歩 代三百四十弐文
右之通、以来持山之分ハ年々山奉行方へ可永納候。且又拝借地・茅場・草場其外如何様成野山たりといへども、壱人持山ニ致候地ハ、右割合永納いたすべく、尤是迄持居候処不毛之広場などニて上納難渋之者ハ其地差上可申候、夫々持山無之望者ハ願次第御渡可下候、尤見分出役被仰付候間、其節持主へ案内立合、畝歩相改書付御渡相成候間、後世取持致居他人に譲渡候節ハ、山奉行江届之上取計可申候、以来永地相成候上ハ他人之持山へ立入、柴木たりとも盗伐・盗刈等決テ不相成候、聊ニても隠持居候者於之者厳科可仰付候、猶又見分済之上ハ以来木元分合之儀被御免候、尤薪山野拝借之儀ハ先達て相触候通、在々御林山たり共被仰付候間、無遠慮勝手次第不大小ニ願出可申候事

  右之通可相触
   附支配有之面々ハ頭々より可申聞候」     「3」
 財政再建策に予期した収入を得られなかった結果、増裕は終に地租を課した。農民は辛うじて年々の年貢を収め、藩士達は年々禄高借上で苦しい時に追討の苛税であったと思われる。上納難渋の者は其の地を藩に返還するようにと言われているが、前述のように、代代の藩主でこのような林業政策をとった藩主はみられない。持山なき者には願次第山地を下さるとの小農育成策がみられるが山地入手の翌年より地租を収めることになるので現在の調査ではこの御触の恩恵に浴した人数を把握することはできない。
(4)「元治二年三月
  村方諸事取締につき家老より仰渡掟
    (十八条よりなるも関係条文のみ記す)
一、山林・草野・川原・御林・村山他村地水中へ拘り候共弐つ免下畑の永楽銭年々上納致し候ハヽ御預け下され候間、次三男隠居店借の者たり共願い出すべく候、田畑開地ニ望まれ候節は、御引上替地下さるべく候、田畑の見留め有之は知行山、拝領山と言い共仰せ付けられ候事」     「4」

(5)「慶応二年(一八六六)丙寅正月
 今度開発之儀ニ付、人々持山之杉・桧ニても願次第御下ケ下され候御沙汰ニ付、追々松山願出候、右林持主残念ニ存じ同様之永納差上げ候間御下ケ下さる様申出の者も有之候得共、他人より願出られ其節ニ至り差支え難渋の者共願人無之内田、畑何ニても可願出候、不願捨て置き脇合より願わられ候時分以来先願之者へ御渡ニ相成り候間、其節当惑及べく早々可願出候此段小前一統江可申聞者也

   正月廿日                直次
                       万次郎
                       権四郎
                       文太夫」 「5」
 この再度の御触書をみると、小農・貧農・或は持山なき者への育成策とみられるが、藩重臣層或は名主組頭等所有の山林であっても、開発を願出れば当人の承諾なしに御下げ下さること或は地租課税米納問題等重税に反抗して慶応二年十月全領に百姓一揆が起きた。翌三年十二月九日増裕の銃死と共に、増裕の行なった改革新法は一切中止されたので、林業新法も廃止になった。
 註「1」「2」「3」「5」日本林制史資料黒羽編 「4」栃木県史 史料編近世四