河岸場発旦其外御尋ニ付奉申候書付
前文略(注)「全文」交通関係に記載あり
一 当河岸発旦之儀は、明暦元年と申伝ニ御座候、其後水戸黄門様当国那須湯本殺生石旧跡御一覧之節、御帰船差出候様、当河岸へ被二仰付一、則相勤候趣申伝ニ御座候、運送仕方之儀は、万治年中と申伝米穀類猶又諸物之内大凡酒・醤油・水油・煙草銭荷柏皮・かうず乗合船其外当所ニて売買ニ罷成候諸荷物、自分荷物積下ケ仕来ニ御座候尤当河岸之儀別段ニ仲間と申儀無二御座一先先より川下筋河岸々/\へ積附候儀ニ御座候荷物運賃諸掛り之外ニ口銭壱駄拾弐文宛是迄取受申候、河岸場之儀上河岸と相唱、領主運上之儀は年々為二河岸役一鐚弐拾三貫文並船役壱艘ニ付鐚八百文宛運上納来候処、近年訳ケ柄御座候て、河岸役・船役共ニ領主より拝領ニ罷成納無二御座一候右奉二申上一候処相違無二御座一候、以上
右は、此度御尋ニ付奉二書上一候処相違無二御座一候
大関伊豫守領分
天保二卯年 野州那須郡黒羽上河岸
十月 九兵衛
代源兵衛
百姓代徳兵徳」「1」
参考
徳川光圀(一六二八―一七〇〇)
明暦元年(一六五五)
万治年間(一六五八―一六六〇)
徳川光圀(一六二八―一七〇〇)
明暦元年(一六五五)
万治年間(一六五八―一六六〇)