3 江戸への輸送経路と輸送量

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黒羽より江戸への木材輸送経路は別紙のようであるが、即ち黒羽より那珂川を下って那珂湊へ、そこより涸沼川を遡って涸沼西端の海老沢で陸揚され、吉影に陸送され、巴川を下って串挽に着き、此処より北浦に出て潮来牛堀を通って利根川に入り、遡上して関宿で江戸川に入り深川木場に廻送された。涸沼西端綱掛より陸送され鳥栖に行くコースもあった。
 那珂川がどの位の木材を流すことができたかの記録はないが安政三年(一八五六)に紀州藩が那須郡百村(現黒磯市)の百姓持山より二万五千本の木材を伐出し、百村から佐良土まで流送し佐良土で筏に組んで江戸へ廻送した記録があるので概略見当がつくと思われる。
「一、紀伊殿用材、野州那須郡百村百姓持山より伐出、栂・樅・桧・椹その外諸木、角丸太、薮木等尺〆二万五千本此節以来巳年十月中迄に右山元より中川通管流佐良土村にて筏に組立、常州茨城郡綱掛村にて一旦陸揚いたし、それより鳥栖村小川下ケ串引村にて猶又筏に組立、利根川を江戸深川木場迄廻木に付、川丈出水等にて散乱木これある節は、右川附枝川等村々早速罷出、紛失これなきよう其所へ集め置き、引請人江戸鉄砲洲樽原屋角兵ヱ代場所附添罷在候間右代の者まで通達せしむべきもの也。

  辰八月十五日」                    「2」
 輸送手段としては船送りと、筏送りとがあった。
                (注1)栃木県史史料編近世四
                (注2)栃木県木材史

 右が近世における本町の林業の歩みの概略であるが、何れにしても、黙々と山で働いてきた人々の汗の結晶が、今日の黒羽林業の基礎を固めたことはいうまでもない。