(四) 窯業

413 ~ 415
 益子焼の行われた以前に、文化年間中前田村の岡野台で瀬戸焼がおこなわれた。現在窯の跡から、それらの破片が発掘された。

岡野台窯場跡


岡野台窯跡


岡野台窯焼物台座


岡野台窯焼破片

 益子は黒羽藩の領地であったので、三田称平が四十四歳の時、安政二年(一八五五)郡奉行として着任した。藩では、益子附近を下の庄と称した。本領から遠くはなれた飛地で、兎角難治の地とされていたが、称平は、先づ領内を隈なく巡って、つぶさに民情を視察して善政を行ったので、さしもの難治の地も民風とみに改まって領民は称平の徳をたゝえたという。この時益子焼の陶祖大塚啓三郎が製陶をはじめてから二年目のことである。
 啓三郎は、文政十一年六月十五日福井村の杉山次郎平の二男として出生、後逆川村に入り、現在は茂木町福手となっている。少年の頃すぐ近くの笠間の、宝田院慈眼寺に住みこんで寺小屋の教育を受けた。住職が窯に出資していた関係上、啓三郎もしば/\窯場を尋ね、轆轤(ろくろ)や窯焚きの仕事を実際見聞して、深く興味を覚え、やがて陶器製作一般の技法を習い覚えたのである。のちに益子の大塚平兵衛の婿養子となった。たま/\大津沢に陶土を発見し、製陶を決心した。当時大塚氏の家は、今の町並に面したところにあったので、ずっと南に入った根小屋(ねごや)というところに藩主より土地を与えられて登窯を築いた。

益子町根小屋
大塚啓三郎が最初に築いた窯場跡

 最初の場所は、現在の大塚肇氏(啓三郎から四代目)の住家のすぐ側で、嘉永四年(一八五一)から築かれ、嘉永六年(一八五三)より本格的に焼かれたが、この窯はあまりながく使われず、その後西側に移され丁度現在のある窯あたりに移築された。今でもねごやといって益子製陶濫觴の地である。常陸宍戸出身の陶工田中長平を招き、この人の強い協力によって、色々と困難の伴う製陶事業を行うことができたのである。長平は、笠間や、宍戸で技法を習得した。宍戸の陶器は相馬焼の流れをくむものであったから、益子焼には直接、笠間や相馬焼の技法風格がみられる。当時の製品は瓶・擂鉢・紅鉢・片口・土瓶・土鍋、行平などみな台所用品であった。前述のとおり、三田称平が赴任したのは、啓三郎が製陶をはじめてから二年目でまだ緒についたばかりであったが、啓三郎にならって窯を築く者ができて五・六カ所にふえていた。然し何れも、農業の副業としてやる状況で、消極的で仲々成果があがらなかった。やはり何といっても窯を築き、仕事場の設置、陶土掘り、燃料代等を考えると、相当な資金を要し、農業所得からの捻出は、当然無理なことであった。この業務を発展させるには、資金の調達が最大事であった。そこで業者一同意を決して藩の役所にこのことを願い出たのである。郡奉行三田称平は、製陶に興味を持ち、この事業の将来の発展と、有利な産業となることを見透し、業者の窮状を察し、その願いを容れて藩から資金を貸し出すことにした。
 藩から製陶業者に資金を貸しつけた時の、覚書は、現存しているが省略する。色々な条件をつけ、なかなか厳しいものである。
 藩では、陶器特産品として発展させ、これによって藩の財政を潤そうとして、資金の用立てをしてその目的を達した。窯元にすればかなりの制約をうけて、十分に満足すべきものではなかったにしても、廃業倒産のうき目をのがれて一時をしのぎ、やがて自由に発展する基礎を築いたことを考えると、藩の資金調達の救済法は、まことに当を得たものであった。
 称平の計画はみごとに実を結んで創業時代の益子陶器の苦境を切り抜けさせたのである。大塚啓三郎を陶祖として、その功績をたたえると共に、当時の行政家としてこれを援助、奨励し、政策として取り入れた三田称平の功績も併せて同等に評価さるべきである。かくして益子焼は、順調に製産され益子より真岡の鬼怒川柳林河岸、久保田河岸に運ばれ大沼河岸も利用され、鬼怒川を舟運で、野田の近くで利根川に出て、関宿まで上り、江戸川に出て、行徳に下り海に出て江戸に入ったのである。日本橋瀬戸物町に荷あげして、売捌方によって市販されたものである。柳林・久保田には藩の御用倉があり、こゝに積みこんで置いて、適時舟で鬼怒川を下った。窯元は、自家製品として自由に処分出来ず、金も藩の管理下におかれ、自分の取り前として、自由に販売し民間に出るものはわずかの数量にすぎなかった。
  (注)陶祖大塚啓三郎の頌徳碑は高舘山西明寺境内にある)(以上は塚田泰三郎著『益子の窯と佐久間藤太郎』を参考とする)