一 商業関係の藩の取締令

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 手馬米の商買人は、米一駄ニ付米四合宛春相場により七月上納しなければならず、年二季に納めた。
 
   明和二年十一月 手馬米入役取立につき申渡
 
奥筋より附出シ致商買候手馬米入役取立相納候様、別紙之通此度町方へ被 仰付候、在々ニても商売ニより手馬米相調申者も可有之候間、組下吟味之上取立横成方へ相納候様可申付候
    酉十一月十六日         藤内
                    藤太夫 印
手馬米入役之事
但シ米壱駄ニ付米四合宛取立上納可致候、暮相場を以正月上納、春相場ヲ以七月上納可致候

 右之通年々二季ニ上納可致事
 
 他所者が年季暇を願って帰る場合は、酒屋の杜氏は弐分、其の外の者は壱分を出役金として上納しなければならなかった。
   ○ 明和四年正月 出奉公人から出役金取立につき申渡
 
     覚
他所出入無拠訳ニて年季御暇願相叶罷出候は、向後男女共ニ出役金上納可致事
    但 酒屋杜氏金壱分
      其外之出人金壱分也
 
右之通村々名主取立、十一月廿日会所へ持参可相納候、右年季御暇願之儀ハ巳来ハ奉公人改之役方へ可相願事
 
別紙書付之通今般被 仰出候間、其旨可相心得候、尤先達て願相叶当分罷出居候者も、当年より出役金上納可為致候

       亥正月廿六日       藤五郎 印
                    藤太夫
 
 六会無尽は、富札に似たものであるので、これを禁止するというのである。
 
   ○ 明和四年二月 無尽取締につき申渡
 
     覚
 近頃六会無尽抔申富札ニ似寄候筋之義有之段相聞候、右躰之義自今可為停止事
    但、年移之上切レ済候割合ニ相当り候無尽ハ当分迄之通り構無之候
       亥二月十六日     藤五郎
                  藤太夫
 
 天明の凶作により、飢饉を招くに至った年であった関係上、米やは領内より他所者へ売ったり、貸出しは遠慮せよというのである。
 
   ○ 天明三年八月 米穀払底につき穀留め申渡
 
        覚
此間一統御触有之通、米穀払底ニて諸所穀留メ等相聞、此後之儀あやうく候間、当御領内よりも米穀を他所者へ払、或ハ貸出候事ハ暫之間見合遠慮可致候、それ共ニ無拠訳ニて米穀他所へ出し候ハヽ、其次第伺申達之上ニて可差出候
右之通、町方村方組下無洩様可為申聞候、已上
    八月廿一日            藤助
                     五藤治 印
                     金右衛門
 
 他所者が紛れこんで米屋がきたり、又縁を求めて領内の者に依頼する者がみられるので村々の名主の印鑑を町方の米屋に差出させ取り締った。
   ○ 天明三年九月 米穀商い取締につき申渡
 
一 御城下町方ニて白米相調候ニ付他所者紛敷、其上他所者共縁を求御領内之者頼候て米調候事も有之哉之様相聞候、依之無拠米相調候者計へ、其村名主印形を以相調可申候、尤村々名主印鑑町方米屋へ差出置可申候、以上

      九月十一日         藤助
                    五藤次 印
 
 凶作の影響が段々ひどくなり、米穀が少くなるに従って、町方穀やも買溜めして、値上りを待ち高値に売出そうとしたり、実際は多く所持し乍ら売惜しみをする者は、邪欲の極みで、疑い恨む者が数多くあるので穀屋同志は、共同して工面し諸所より少しでも、買い入れ一般消費者に、不自由を与えてはいけない。そうでないと、いわれなき疑心をもって、悪説虚説(流言・飛語)となり、恨みをかい愚者を迷わせ騒動にもなりかねないので、充分留意しなければならない。領内においては、秋までは米は心配のないみとおしである。従って悪説虚説にまどわされて、穀やを恨み騒動を起している例は、他藩にみられたので特にこのことを恐れて、取締申渡がなされている。
 
   ○ 天明四年閏正月 米価騰貴につき穀商い取締申渡
 
      覚
町方穀屋、旧冬より米穀下直ニ買入置、当春段々高直に売出、或ハ買置之米穀多く致所持なから、少キ躰ニ〆売致、専邪欲之巧ミト察シ、疑ひうらミ候者、数多有之段相聞候付、此度町方米穀改被 仰付候処、買置之米穀至て少ク存之外成事ニて、此上売続之程甚無心元相見候、乍去此以後も穀屋共働工面を以諸所より少々宛も買入致、何卒米穀売買取続手切し無之様、才覚可仕旨、猶又被 仰付候、右之次第候得ハ、いわれなき疑心を以穀屋を恨ミ、悪説虚説を申出、愚昧之者を迷わせ騒敷儀決て仕間敷事

一 穀屋共ヘハ追々申付先達てより掛札等も為致、猶又此度惣改之上、弥過当之利分不取、随分貧民を助候様ニ小売可仕旨及沙汰、万一此以後邪欲不筋成売方致候穀屋有之ハ、上へ可申達御吟味御下知可被下置事

一 右ニ申候通いわれなき事、虚説悪説を申出穀屋を恨悪ミ候得ハ、愚成者共ハ実に心得、此以後騒敷も成候てハ、穀屋共甚心外之至ニ付、米穀買入之働無出精ニ相成候ハヽ、御領内一統之難渋弥困窮相募、外ニ通用致方無之と申儀を、百姓共へ弁候様ニ名主初頭立候者共より教聞セ取治可申候、皆人存候通、此節ニ至候てハ他所何方も厳敷穀止之儀ニ候ヘハ、黒羽御領内之者共ハ黒羽町より外ニ米穀通用当秋迄ハ無之儀と相見候、然ル所前条之通卒(粗)忽成者共、無分別成不筋仕出候ハヽ、町方不通用ニ相成、御領内一統差障大罪ニも可相成候間、心得違之者無之様委敷道理を可為申聞候事

一 町方より成共村方より成共、他所忍之出穀有之を見掛候ハヽ何方ニて成共差押置可申出候、指押候者へ其穀物被下置得分ニ可申付候間、夜分/\は別て心を友友吟味之儀、無油断仕可申事

     閏正月
 村々へ申渡之趣、別紙相添相廻候組下ニ念入行届候様可申付候以上
      辰閏正月廿四日       藤助 印
                    五藤次
                    金右衛門
 穀屋を株制にし、その軒数を制限していたが、それでは、売り惜しみをしたり、奥筋の方へ安く買入れに出る者が、先々心配されるので、これからは以前と同様、軒数を制限しないというのである。
 
   ○ 文化九年五月 穀屋株廃止につき申渡
 
無恙御座候、一段之義存候、然は兼々申候、向町穀屋之事、一統数之定有之候間、悪敷〆売候様相成、奥筋へ打越買入候様に、先々多分相成行候てハ、領中之衰微第一と存候方、是以来ハ以前/\之通、軒数不相定様、町奉行へ及沙汰可被申候
一 弓鉄砲稽古之義ハ、行々相考之上、後日可申遣候、以上
   五月 廿日
(那須町沼野井 瀧田馨家文書)

   (瀧田馨家文書以外は県史より抜粋)
 以上が商人に対する取締・申渡・仰渡である。天明時代の穀屋に対するものが多い。幸い藩内においては、穀屋の打毀し的騒擾のなかったことは幸いであった。
 やはり農業と同様、鈴木武助等の仕法が、役立ったものと思われる。