六 工業

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 黒羽向町の山形屋は文政(一八一八)以前からの旧家で、祖々父は江戸の神田生まれ、黒羽藩の御用鍛冶を勤め、刀を打って上納していた。
 名を加藤金吾と言い国照と号した。町内に刀鍛冶をした者はこの外、土屋信親や田町の二野戸氏などがある。

「御刀鍛冶」鉄水子国義の木札
(黒羽向町加藤敏勝所蔵)

 金堀川の近傍大豆田の土屋町は、吹き釜があったところで、ふるくから行われていたと見られる。
 鍋の吹き替えなどをした鋳物鉄工場は、黒羽田町にもあった。現在の八塩橋の近傍である。田町鈴木貢四郎家には、先祖田町鋳物師鈴木儀助の鋳物職の免許の書状と監札などが保存されている。前者は、嘉永二年(一八四九)~文久二年(一八六二)までのものである。

「御鋳物師」鈴木義助の鑑札
(黒羽田町鈴木貢四郎所蔵)


鋳物師の伝授書
(鈴木貢四郎所蔵)

 黒羽藩では幕末のころ藩主大関増裕が、洋式兵法をとり入れ、慶応年間(一八六五~一八六七)金子留次郎という技師を抱え、鉄砲手の野田喜十郎を助手として鉄砲を製造したり、大砲を土屋町の鋳物師大川春之進らを江戸の講武所に派遣して、そのつくり方を伝習させたということである。(ふるさと雑記より)
 「酒、醤油」の醸造を業とする者も何軒かあったようである。(黒羽河岸より天保二年(一八三一)の例に輸送物資の中にあるのをみても、これらの醸造家のあったことがわかる)
 あとは家内工業として「わた」からの綿糸、機織り、「養蚕」により絹糸、絹糸は黒羽河岸よりの輸送物資の中に入っており、藩外に移出された。
○「油荏」(じゆうね) 「菜種」からの搾油、これは自家食用として一般的に行われ、なお藩外にも移出された。
 「紙漉」楮を原料として紙漉きがおこなわれ、北区(北野上)愛吉の鈴木薫氏宅では、明治に入ってからもこれを続け、郷土資料室に「紙漉(かみすき)」の器具が寄贈され展示されている。その漉いた紙が鈴木家に現在も保存されている。現在でも山林、原野に楮が散見され、藩政当時の各村に何軒かは、「紙漉」がなされていたようである。

紙漉き作業(止戈枢要)

 なお楮は藩外に移出されていた。
(注)機織、紙漉等については、その全行程について精細に、増業の著書「止戈枢要」に記述されている)

 染物、鍛冶を営む者も当然あった。