黒羽河岸の下流約一粁に、「黒岩(くろいわ)」と呼ぶところがある。現在の大豆田字高黒(たがぐろ)地内である。この黒岩の地に永正十七年(一五二〇)、大豆田村礒豊由は、黒岩河岸を開設している。そして、元和九年(一六二三)に、この河岸を領主に献上している。このことは、礒家家系図の中に左記のように記録されている。即ち
「礒隼人豊由は、永正十七(一五二〇)庚辰年家督を勘解由豊式に譲っているが、その項に「同年村内エ川岸問屋相建ル、但し、黒岩河岸ト名附、諸荷物を運送す」とある。また、礒清左衛門豊明の項に「元和九(一六二三)亥年十月、持分之黒岩川岸、御領主御好ミニ付、右川岸ヲ献ス」とある。
礒家の先祖礒宇内藤原豊光は河内国に住んでいたが、七代の孫民部之介豊〓は、延暦四乙丑(一一八二)三月下野国那須川西郷(注・川西郷は余瀬・大豆田を中心とした地方とみられる)に移り住んでいる。治部太郎豊好代に、那須氏の祖、藤権守貞信が、八溝、岩岳丸を退治したとき参陣し、その功により川西郷の郷士、長サ百姓を申し付けられている。また主計豊末の男子彦太郎は妙順と称し、雲巌寺に入山、仏応禅師と称せられた名僧である。黒羽藩政時代には、「初蔵(くら)入」を仰せつけられた程の名家である。
黒岩河岸の経営実態は、記録と旧聞もないので不明である。どちらにしても、礒家家系図の記録は、この河岸が黒羽河岸より百三十五年も前に開設され、やがて黒羽藩の御用河岸へと発展していく過程を示している。
黒岩河岸開設年「永正十七年(一五二〇)」の記録は、栃木県内の河岸関係の文献では、最も古いものとみられている。この意味でも礒家の「系図書」は評価されてよい。