②両河岸の開設

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黒羽河岸は、上河岸と下河岸とを総称した呼び名とみられる。創垂可継には、両河岸と誌してある。上河岸は主として、当所売買の穀物など諸商米の積出しに、下河岸は諸家廻米に当ったものとみられる。
 黒羽河岸の開設は、明暦元年(一六五五)である。次にこの開設時期を県内の主な河岸と対比してみよう。
  板戸河岸  慶長三年(一五九八)
  乙女(おとめ)河岸  慶長五年(一六〇〇)
  阿久津河岸 慶長十一年(一六〇六)
  栃木河岸  元和三年(一六一七)
  北猿田(えんだ)河岸 寛永元年(一六二四)
  柳林河岸 寛永五年(一六二八)

 黒羽河岸は、鬼怒川筋板戸河岸より半世紀遅れて開設されている。これを那珂川筋の諸河岸と比較しても同じことが言える。水戸付近で河川交通がおこなわれていたのは文禄二年(一五九三)ころで、久那瀬・烏山・野上・生井・大瀬・河井の諸河岸は、黒羽河岸とほとんど変らない慶安四年(一六五一)ころ開始されている。
 下野国の主要河川の開始時期は、一般に近世の前期であるが、その開始要因の主なものを挙げると次の通りである。
 黒羽河岸は、那珂川遡航の終点である、城下に立地していた。これは黒羽藩の政治的配慮からで、この開始時期は、幕藩体制下、江戸を中心として、街道・水路の整備と輸送体制の確立されていた時である。そのため、下野と南奥の江戸廻米等のため、河川網が張りめぐらされ、請積換河岸がその機能を発揮し、輸送経路が整備拡充されていったものとみられる。
 また、正保三年(一六四六)、奥州道中の宿駅が越堀宿を最後に整備され、原街道も、そのころに、主として廻米輸送のため、会津藩が、これを開通したという刺戟も大きかった。即ち街道の整備が内陸的水路的利用を助長していったのである。また黒羽藩では、藩領下之庄(益子地方)江戸屋敷との交流と経済的関連上、鬼怒川筋に御用河岸(柳林・久保田)を置いた。何時頃から開始されたか不詳であるが、「創垂可継(そうすいかけい)」(文化十四年(一八一七)にはその記事がみられる。