会津の若松・高田・二本松・白河などの廻米と南奥の諸荷物は、鬼怒川を川下げして輸送したのが大部分であるが、黒羽河岸まで陸送し、那珂川を利用したものもかなりあった。
天保期(一八三〇~四四)になると、黒羽河岸の阿久津源兵衛は、奥州道中と那珂川とが交差している鍋掛に着目し、鍋掛の対岸にある黒羽藩領越堀と稲沢に出河岸を設けて、〓船により、物資の輸送をはかった。出河岸を設けたのが天保七年(一八三六)のころである。
次いで、黒川に沿う戦村から黒羽までの通船を企画したが、実際は天保十三年(一八四二)、黒川新田に荷置小屋を設け、〓船と小鵜飼船とを新造し、運送する許可を得た。しかし黒川舟運は大秋津村に用水堰があり、流路に大きな石や藤蔓等がはびこっていたりしていて、川普請等に多くの労力と経費とを要し、その運営は容易でなかった。しかし、商圏を拡大し、黒羽藩の城下を繁栄させようとした情熱はすばらしいものがあった。