天保二年(一六三一)の『書上覚』に次の記事がある。
「運送仕方之儀は、万治年中と申伝、米穀類、猶又、諸荷物之内大凡酒・醤油・水油・煙草・銭荷・柏皮・かうぞ・乗合船、其外当所ニて賣買ニ罷成候諸荷物、自分荷物積下け仕来ニ御座候」
なお明暦四年(一六五八)頃は、木羽・木材・硫黄・茶・菜種・栗・絹糸・大石・雑貨等を輸送した。この外、板貫等は筏により、野田・長倉・細谷・海老沢等に輸送した。
移入貨物は、海産物が主であった。当時干魚は、水田肥料として重要なものであった。肴は浜方商人から継送りされてきた。これ等の関係資料として「黒羽田町と黒羽河岸荷物輸送争論」等がある。
輸送の料金は、前記『書上覚』によると、烏山まで六拾八文(夏川)、七拾三文(冬川)で、野田まで百弐拾八文(夏川)、百三拾弐文(冬川)、水戸まで百七拾八文(夏川)弐百壱文(冬川)である。なおこれは、安永六年(一七七七)銭直段下直である。