河岸場発旦其外御尋ニ付奉申上候書付
書上覚
野州那須郡黒羽町
(本文)
一 天明之頃(一七八一~八九)、荷物払方員数帳面焼失仕候ニ付、寛政年中(一七八九~一八〇一)之分、享和年中(一八〇一~〇四)、文政年中(一八一八~三〇)之分、別紙取調奉書上候
一 天明之頃、持船三拾六艘、不残私所持之船ニ御座候
一 当時有船、去年中御改、弐拾六艘、不残私所持之船ニ御座候
一 所持高 九兵衛
但シ領主御運上之儀は訳ケ柄御座候て、諸運上向領主より、拜領ニ付納無御座候
有高弐拾石三升
一 所持田畑弐町壱反四畝三分 九兵衛
内、田九反四畝十弐分 田拾壱石壱斗三升壱合
内
畑壱町壱反九畝廿壱分 畑八石八斗九升九合
夏川
一 三拾壱文 佐良土
一 四十三文 久那瀬
一 六拾八文 烏山
一 八拾四文 野上
一 九拾文 生井
一 百壱文 大瀬
一 百八文 川井
一 百弐拾弐文 野田
一 百弐拾八文 長倉
一 百三拾七文 野口
一 百七拾八文 水戸
一 弐百弐拾弐文 中湊
同冬川
一 三拾八文 佐良土
一 五拾八文 久那瀬
一 七拾三文 烏山
一 九拾文 野上
一 九拾五文 生井
一 百六文 大瀬
一 百拾四文 川井
一 百三拾弐文 野田
一 百四拾六文 長倉
一 百四拾八文 野口
一 弐百壱文 水戸
一 弐百四拾文 中湊
右は、安永六酉年、銭直段下直ニ付、一統地頭領主へ願之上相定申候
口銭 拾弐文
一 川下ケ小船拾壱艘 長弐丈五尺
横壱尺八寸
但シ拾五ケ年季持ニ御座候 深 九寸
一 荷物積船、当時弐拾六艘 長 八間程
横 六尺程
深 弐尺程
船之名、小鵜飼船と唱申候
但し、夏川・冬川平均拾弐石程之積りニ御座候、船頭弐人乗給金と申無御座、壱ケ月八貫文程宛稼ニ相成申候
一 当河岸より烏山町・大沢村・生井村・大瀬村・川井村・野田村・長倉村・野口村右村々へ積送り申候 江戸為登之荷物は、野田村長倉村ニて中継仕候
一 陸揚之上、牛馬ニて附送り候儀は、生井村・大瀬村・川井村より揚候荷物は、茂木町其外所々へ附送り申候
水戸湊・海老沢揚之荷物は、吉影村迄送り、江戸諸国行之荷物ニ御座候
但し、里数黒羽より
烏山へ 六里
大沢へ 六里余
野上へ 七里
生井へ 九里
大瀬へ 九里半
川井へ 十里
野田へ 拾壱里
長倉へ 拾弐里
野口へ 拾三里
水戸へ 弐拾里
中湊へ 弐拾弐里
海老沢へ 弐拾七里程
一 川下中湊迄、夫より海老沢村迄之間、枝川登り船ニ相成申候
一 当地より川上、通船一切無御座候
但し、那賀(珂)川水元、当国那須山より流出、川下中湊ニて海へ落入申候、川丈ケ凡三拾三里程
初文ニ廻ル
河岸場発旦之儀御尋ニ付左ニ奉申上候
一 当河岸場発旦之儀は、明暦元年(一六五五)と申伝ニ御座候、其後水戸黄門様当国那須湯本殺生石旧跡御一覧之節、御帰船差出候様、当河岸へ被仰付、則相勤候趣申伝ニ御座候、運送仕方之儀は、万治年中(一六五八~六一)と申伝、米穀類猶又諸荷物之内大凡酒・醤油・水油・煙草・銭荷・柏皮・かうず・乗合船其外当所ニて賣買ニ罷成候諸荷物、自分荷物積下ケ仕来ニ御座候、尤当河岸之儀別段ニ仲間と申儀無御座、先々より川下筋河岸々々へ積附候儀ニ御座候、荷物運賃諸掛り之外ニ、口銭壱駄拾弐文宛是迄取受申候、河岸場之儀上河岸と相唱、領主運上之儀は年々為河岸役鐚弐拾三貫文并船役壱艘八百文宛運上納来候処、近年訳ケ柄御座候て、河岸役・船役共ニ領主より拜領ニ罷成、納無御座候、右奉申上候処、相違無御座候、以上
右は、此度御尋ニ付奉書上候処、相違無御座候
大関伊豫守領分
野州那須郡黒羽上河岸
天保二(一八三一)卯年 九兵衛
十月 代 源兵衛
百姓代 徳兵衛
(阿久津正二家文書)
『河岸場発旦其外御尋ニ付奉申上候書付』(天保2年)