一 奥州御大名様方御廻米古来芦野より寺子へ引請、越堀へは荷口蔵敷を被下、請払仕候分ニて仕切指出シ、附送り之義ハ寺子村人馬を以て練貫・一ノ沢・堀込・深田・黒羽へ相通シ来り申候所に、白川御米去春黒羽向町へ御通シ被遊候得ハ、越堀問屋方より使を以て申参候ハ、黒羽へは横道之儀ニ候間、自今寺子より相通シ申義罷成間敷由ニ御座候、又々旧冬御急用にて、黒羽へ御通シ被成候、其節に指かゝり理非を申候てハ、月迫御急米之御指支に罷成候故、御宰料中私共右之趣を申、御米相通申候、然共越堀問屋方より黒羽へ之仕切指出シ不申候、依之白川御米芦野より伊王野通りに罷成申候、其上ニ松平播摩守様御米も当新穀より黒羽川岸道筋共に当春御見分之御役人矢部源右衛門殿へ越堀より御願申上、寺子を相除、芦野より越堀へ直に引受可申由越堀問屋中申候、然ル上ハ寺子亡所に罷成候得ハ、御手始御延引被成、是又伊王野通りに罷成申候御事
一 四十年以前も此度に不相替黒羽通シニ付、越堀より相障り異論に及ひ、高木伊勢守様御支配之節御願申上、寺子も御証文御加筆之場所故、古来之通被仰付、只今迄受来り、黒羽へも申年迄度々相通申候、向町問屋中にも覚へ可有御座候義と奉存候、併仕切帳面等寺子村出火之節焼失仕候、畢竟ケ様之儀故、此度も出入に罷成候様に奉存候、しかれ共高木伊勢守様御裁許之上、越堀より被召上候誤り証文之写し被下置、勿論其節指上申候御願之下書所持仕、乍恐御披見之上、具に相知レ可申御儀と奉存候、殊ニ本宿之儀、越堀ニ不限脇宿共ニから仕切と申、御大名様方より荷口倉敷銭を被下、御米ハ間之宿横道へも御勝手を以て御通シ被遊候、大田原宿之義も越堀同意之場所ニて、惣て御大名様方御廻米不残商人米もから仕切にて、本道横道共に、間之宿之人馬を以て無相違附通シ申候、其外左様之類数多御座候、越堀より相障り不申候得ハ、白川・長沼右御両家様御米、毎々之通り寺子へ御掛可被下由に御座候御事
一 御米伊王野通りに罷成候得ハ、御上納之荷口銭、寺子・越堀両宿之分不納ニ罷成候、尤寺子村之義越堀へ定助を相勤、其上によさゝ川満水之節ハ、大 御公儀様御用ハ不及申ニ、御大名様方御上下往来共に前後へ次送り、御伝馬宿同意ニ一切之御用相勤申候得共、近年所々御米荷物不足ニ付、問屋附子共に困窮仕候砌、四十年以前伊勢守様御裁許之上にて、愈古来之通りに被仰付、只今以て致し来り候儀を、又々此度越堀より再通し申出候段、案之外に奉存候、併御同領之儀に御座候故、再三対談仕候得共、内証ニて相調不申候、しかれハ寺子村問屋場亡所に罷成、惣附場之百性共ニ迷惑仕り、勿論余宿迄之障りに罷成申候御事
右之趣、 御慈悲を以て先規之通り被為 仰付被下候ハヽ、難在奉存候、已上
享保十四年 寺子 九平太印
酉九月 同 次郎兵衛印
同 藤七印
寺子村中印
惣附場印
御奉行様
(熊久保家文書)
(注) 廻(回)米、江戸時代の米穀の輸送、またその米穀をいう。幕府・各藩・商人などが江戸および大坂へ米穀を運ぶときは主として海路によったが、河路も使われた。特に御城米などは厳重な廻米の仕方がとられた。