(1)河岸のようす

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 那珂川筋の河岸には両河岸のほか、田町河岸があったが、下流の矢倉にも河岸場があった。別葉の図は明治二年(一八六九)に検見に必要なため日光県役所に差し上げた。控の「矢倉村耕地絵図」(部分)であるが、御亭山(こでやさん)の沢水を山口に溜を造成し、上位段丘上に水田を開いたさまを示した貴重な絵図であるが、この絵図のなかに水神を祀る岩の北側に川岸場の位置が明記されている。そして河岸場付近に佐良土道も通じており要衝地に立地していたことがわかる。

「明治2年巳己10月御検見入に付日光県御役所江差上扣」(大金家文書による)

 矢倉河岸は旗本の領地のなかにあり、嘉永七年(一八五四)の判取帳その他によると、綿種・烏山紙・白米・砥石・小荷・下駄・下駄甲良・杉皮・木羽・木材・同上加工品が送られたとある。
 河岸問屋は矢倉村の大金家が経営していた。同家は豪農で当時酒造業も営み、同村の名主として重きをなしていた。同家には「判取帳」「面附帳」などがよく保存されている。
 「組合村々地頭性名其外書上帳」「安政二年(一八五五)」によると矢倉村は三給地であるが、「矢倉村の戸数は「九戸」で、「馬五疋、牛十二頭」とあり、「源次右衛門は那賀(珂)川附河岸問屋を稼仕り候」とある。また「当村方右川岸より農間船運送稼仕り候」ともある。

矢倉河岸問屋


矢倉村と佐良土村の船道争いに関する文書

 次に、黒羽・矢倉河岸関係の資料を紹介する。