
「明治2年巳己10月御検見入に付日光県御役所江差上扣」(大金家文書による)
矢倉河岸は旗本の領地のなかにあり、嘉永七年(一八五四)の判取帳その他によると、綿種・烏山紙・白米・砥石・小荷・下駄・下駄甲良・杉皮・木羽・木材・同上加工品が送られたとある。
河岸問屋は矢倉村の大金家が経営していた。同家は豪農で当時酒造業も営み、同村の名主として重きをなしていた。同家には「判取帳」「面附帳」などがよく保存されている。
「組合村々地頭性名其外書上帳」「安政二年(一八五五)」によると矢倉村は三給地であるが、「矢倉村の戸数は「九戸」で、「馬五疋、牛十二頭」とあり、「源次右衛門は那賀(珂)川附河岸問屋を稼仕り候」とある。また「当村方右川岸より農間船運送稼仕り候」ともある。

矢倉河岸問屋

矢倉村と佐良土村の船道争いに関する文書
次に、黒羽・矢倉河岸関係の資料を紹介する。