1 柳林河岸について

438 ~ 438
鬼怒川筋の柳林・久保田河岸には、文化年間(一八〇四―一八)黒羽藩の御用蔵が置かれたが、柳林河岸について述べる。
 柳林河岸は寛永五年(一六二八)に開かれていた。同河岸の始まりは、「元禄四年未の年迄六十余年以前辰ノ年取立テ侯」(仙波家文書による)とあることにより立証されよう。鬼怒川筋の荷物積船は上流ではほとんど小鵜飼船(米三十俵積)であり、柳林辺りから下流は高瀬船が用いられたようである。万治四年正月「川下げ荷物船運賃定」によると柳林河岸から中島河岸まで、米たばこが、金一分三十六駄半であったという。たゞし一駄二十七文の割合である。また柳林より久保田河岸までは、金一分に二十七駄半(但し一駄に三十五文三ふん)であったという。なお、「たばこ小俵四ツ付共に米一駄下りの事」ともある。当時の荷は河岸から河岸への中継が多く、江戸への直通は月二~三回であったという。
 嘉永四年の「黒羽藩益子陣屋荷物運送につき柳林河岸取調書」によると三月十日から十月十日迄が夏川で十月十日より翌年三月十日迄が冬川と称し、江戸まで夏川十五日、冬川二十日の日数を見込んだという。夏と冬では運賃でも若干の差があった。
 「米百俵(五十駄)、此の目方一、八〇〇貫目、右の運賃三両也。但し冬川は目方同様にて役荷物代金三両一分」という記事あり。柳林には上河岸(現山崎果(さだむ)方)と下河岸(現 佐々木林市方)とがあり、大正末期まで河岸が営まれていた。(『真岡探訪』第三号「真岡の歴史をたずねる会」による)

鬼怒川筋柳林河岸近傍図