また川をはさんだ両岸の交通は、浅瀬を渡渉するのが普通であったが、渡しの船も利用された。一般に渡渉地は低湿地が選ばれた。黒羽田町は近世のころ阿久津村と称し、向町との渡し場がみられた所である。(注、須佐木の武茂川沿いや、寺宿付近の松葉川沿いにも、同名の名の地名がある。)
「阿久津」とか「阿久田」とか「明戸」という地名は上位段丘上にある「塙」に対するもので、「圷」とも書き、「アクツ」とか「アクト」と読まれる低湿の土地である。「砂原」とか「河原」などもそのようなところに立地している。
対岸の土地は、上流や下流の土地とともに、政治・経済上関係が深く、文化の面や社会生活上からも重要な結びつきをもっていた。従って対岸交通は大切であったのである。
『創垂可継』「多治比系伝」(文化十四年(一八一七))の「黒羽居館の図」をみると当時阿久津村(黒羽田砂原町)と石井沢村(黒羽向町)間の那珂川に「舟渡し」がみられていたことが明示してある。また「黒羽周辺景観図」「西郷の図」(文政九年(一八二六)夏小泉斐筆)には、ヨナ渕(奥沢)と牛居渕(大輪)との間に仮橋とみられる木橋が架してある。(注、本書裏表紙「見返し」参照)この辺りは黒羽城北の地で古来要衝の地であった。(現在の黒羽橋付近である。このように船の渡しとか、ある時期だけのいわゆる仮橋などは他地方の渡渉地にもみられたことである。)
黒羽田町と向町との間の那珂川に船橋が試作されたのは天保七年(一八三六)のころである。近江国日野町生まれの向町の商人釜屋(後に姓を船橋と称した)久兵衛が架したのである。鉄鎖一本で船八艘をつなぎ、その上に橋板をならべて通行の便をはかったのである。
「組合村々地頭姓名其外書上帳」(安政二卯年三月黒羽町)の黒羽町の項に「当所田町の間定船橋御座候。但し船八艘鉄索(さく)一本」とある。
天保十一(一八四〇)年、四方の君主富人豪家より浄財をうけて再建したとき、久兵衛は不朽の徳を称えて碑を立て「陰徳橋」と称したという。その碑文は次の通りである。
陰徳橋
夫舟橋者詩所謂文定厥祥親迎干渭造舟為梁是其濫觴也乎而傳吾日本徒為往来通津之便而巳黧羽市中向田両街間珂水通雖毎歳徒杠輿梁費民力洪水氾濫莫歳不流亡土人患之嘗天保七年丙申歳向街某試作舟橋而五年干今雖有洪水免流亡惜哉工費不繼僅試焉耳於是請四方君子富人豪家而鳩許多金戮力茲天保十一年庚子歳再経營之舟船橋梁盡倍前功名曰陰徳橋嗚呼以乗輿濟人於湊洧者豈及諸君之賜某之精試哉因併勤其姓名於石而傳之不朽作詩二絶其辭曰巳成陰徳橋陽報曽無徼〓掲何為問不關舟子招造舟梁上興先唱大明歌天妹親迎後往來此地多
天保十一年 大沼控撰□□
發願人
釜屋九兵衛
なお船橋ができると、渡し場付近の街道筋には茶店が出きて旅人の憩いの場となった。
黒羽田町の家数などと茶店の位置『安政書上』による
奥州道筋黒羽向宿の茶店
位置図『安政書上』による
「別図」は「組合村々地頭姓名其外書上帳」(安政二卯年三月)の阿久津村(当時田町)と黒羽町(黒羽向宿)の町並みの略図である。
なお、黒羽町(黒羽向宿)は、石井沢村と称す。当時家数百三拾弐軒、人別男四百拾人、女三百七拾六人(たゞし出稼奉公住のものをふくむ)馬三拾疋であった。
安政二年の「書上帳」によると寒井村は当時家数弐拾軒あり、奥州道中の脇往還であったので問屋(甚左衛門)があり、茶屋渡世の者「久之助」があり、那珂川の渡し場には橋渡しがあったとある。(『問屋』(別図参照)
那賀(珂)川附近の村「寒井」と問屋・茶店の位置『安政書上』による
また『地誌編集材料取調書』(明治十八年(一八八五))によると「川田橋」につき、次の記事あり。
「寒井村越堀宿ヘノ往還ニ属ス。村ノ未申方黒川ノ下流ニアリ。水深五尺。広サ二十間、橋ノ長サ二十間、木及柴ヲシテ造リ、土ヲ布ク。其ノ形平坦、夏期ニ至レバ洪水ノ為メニ流失スルヲ以テ毎年四月尽日之ヲ取リ十月ニ至リ又架設ス。其ノ間ハ舟ヲシテ往復シ、又浅瀬ヲシテ徒渉ス」
近世のころの橋渡しもこのようなものであったものと考えられる。