一 交通要衝地としての黒羽

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 那須七騎随一の武将と称された大関高増は天正四年(一五七六)三月近世への予見のもとに余瀬白旗城より黒羽の地に移り城郭を構築したが侍屋敷を城郭内に成立させた。そして、白虎の地である石井沢・奥沢の広野に大道を開き、商工業者を城下に集め、既成の黒羽田町とあわせていわゆる城下の町屋を形成し、やがて河岸場も設け、経済の推移に対応した。こうして余瀬から黒羽へと大関氏がその居所を移したことにより、交通の面でも大きく局面を展開していくことになる。
 すなわち黒羽藩主大関氏(一万八千石)の居所下という政治上の中心地であることゝ、田町・向町を核とする商業を中心とする経済活動の刺戟は大きく影響し、城下町指向に人馬の往来と物資の移動がみられたからである。
 延宝二年(一六七四)余瀬の筋違橋付近上宮の市神を向町にわけた時期が、おそらく余瀬から黒羽へ経済活動力が動いた時期ではないだろうか。こゝにも中世から近世への大きな動きがみられた。

河野守弘編『下野国誌』「巻一」による

 黒羽城下を起点として主幹道路であった関街道―鎌倉街道とを結ぶ道が開けた。浜街道も一層その結びつきを固くする。

参考図
原方道・奥州街道・関街道道筋略図
注、この略図は明暦四年(一六五八)五月、御奉行所宛提出したものである。
道筋村々の支配関係などの付記事項もあり、図のみ参考のため掲げる(岡本家文書による)

 黒羽河岸も那珂川の最上流にある河岸としてその機能を発揮し、天保期にはさらに稲沢と越堀などに出河岸を設け、さらに白河に近い黒川にも荷置小屋を置き奥州廻米を強化し黒川舟運を行ったので商圏は拡大され黒羽の城下は物資の集散と仲継ぎの地として一層賑わいをみせ、商況も盛んとなった。