二 奥州道中とこれを結ぶ道

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 徳川幕府は万治二年(一六五九)、黒羽河岸が運送を開始したころ、はじめて道中奉行(大目付高木守久)を置いて、東海道・甲州・中山・日光・奥州(羽)の五街道を官道に指定し、幕府が直轄管理にあたった。
 黒羽にかゝわりをもつ官道に奥州街道がある。参勤交代制が寛永十二年(一六三五)の武家諸法度の公布に伴い確立されると、諸大名などが往来し、次第に整備されていった。
 奥州街道は、千住宿からであるが、宇都宮までは日光本街道(十七宿、二十七里三十町)の路程と全く同じである。
 宇都宮から、白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂・白川(河)までが、奥州街道である。この街道のことを陸羽街道とか、奥州海道とも誌しているが奥州道中とも呼ばれていた。関街道―鎌倉街道にかわる重要な官道とされた。なお、奥州道中の宿駅越堀は黒羽領内である。実質的に奥州道中を呼ぶときは、宇都宮―白河間を指すものと考えてよい。宇都宮―白河間の道程は約二十里二十二町で、この間に八宿がある。
 宿駅には本陣・脇本陣が置かれ、大名や身分の高い者の休泊にあてたほか、荷物を輸送する問屋や、旅人の旅篭(宿)が置かれた。街道筋には一里塚やマツやスギ等の並木がみられた所がある。文政五年(一八二二)ころ奥州街道を往来する大名は三十七家にのぼったという。
 白沢と阿久津の間は鬼怒川の渡しがあり、鍋掛と越堀との間は那珂川を越した。那珂川の場合、近世の初期頃は、徒渉であったが、中期以降は舟も利用され、後期となると専ら舟橋が利用されたという。
 奥州道中に伝馬・宿駅の制が施かれたのが慶長七年(一六〇二)であり、正保三年には黒羽藩領内の越堀宿を最後に十ケ宿の設置が完成し、官道へと次第に整備されていった。
 官道として新設をみた奥州道中は、既設の関街道から西寄りの地を、黒羽から遠く離れて通るようになった。この後も主幹道路は那須野の乾燥原の新天地を求めて西へ西へと遷り、黒羽地方は次第に過疎化の方向へ進むようになる。
 さて、奥州街道が開けてからも、関街道などは依然として重用された。粟野宿(余瀬)も街道筋としてながく繁栄をみたが、大関氏の居城が黒羽へと移城してからは、黒羽の城下を通過する瀕度を増すようになる。鎌倉街道としての関街道は近世になると白河の関から黒羽領蓑沢―御領伊王野―黒羽を経て蛭田福原―烏山領鹿子畑―喜連川葛城―宇都宮領板戸の道筋が一路線としてとられたが、大海(街)道としての奥州道中が白川(河)―奥州白坂―芦野宿―黒羽領越堀―御領鍋掛―大田原―佐久山―喜連川―氏家―阿久津へと通るようになると、関街道筋の黒羽と奥州道中の佐久山・喜連川とを結ぶ道が重用視された。
 「道普請寄附姓名録」(嘉永改元戊申年〈一八四八〉九月吉日、南金丸村)によると、この道筋のことについて次の記事がみられる。
 「黒羽町よ里(り)福原村通り喜連川迄の道筋、殿様御上下者勿論、御家中様方御通行其外諸荷物御商人方御往来之場所ニ御座候処、御検聞之通り、細道悪路ニ而人馬共難渋至極趣ニ付何卒可成ニ毛致普請御通行之憂無之様仕度云々」と福原道の道普請についての寄附を乞うた文書である。願人は黒羽向町 高柳倉治 阿久津永之進と町名主阿久津源兵衛 などである。なおこの寄付帳は南金丸村名主 勘蔵ほか忠蔵・藤蔵・市右衛門など四十五名に求めたもので締(し)めて四貫五拾六文の寄附を得ている。
 またこの黒羽―福原―喜連川の道筋は、この道普請のために書き上げた「御地頭御姓名取調書上」(嘉永元年)から作図した「福原道図」であきらかである。大豆田村と狭原の入会地である清水坂から山野(さんや)の地を通り、金丸丘陵地内の法師峠を越し、鹿畑、狐島から倉骨村に入り、片府田から箒川を渡り福原に達し、こゝから大沢・沼畑・小郷野・和田村を経て喜連川に達し、奥州道中に入ったのである。この道を黒羽辺りで「福原道」と呼んでいる。この福原道は、黒羽藩主の参勤交代に際し江戸道であったし、家中侍の通行、諸荷物、商人の往来に使用されていたことは前記の文書にも明示されているところである。しかしこの福原道は細道であり悪路であったので、近年のうちに殿様の御入府のこともあり、嘉永の道普請がなされたのである。黒羽藩主の江戸への登りは、福原道で喜連川から氏家、阿久津に至り、そのあとは鬼怒川と利根川の舟運によった。次にその一例を挙げよう。

福原道図
『御地頭御姓名取調書上』(嘉永改元戊辰年)による


『御地頭御姓名取調書上』(嘉永改元戊辰年による)

 明治四年(一八七一)廃藩置県により旧黒羽藩主大関増勤が江戸屋敷に行き、翌年アメリカに留学した際の江戸への旅も福原道で喜連川に行き、氏家から鬼怒川に出て、阿久津河岸で乗船、利根川筋の関宿から旧利根川を下り北千住に着いたという。しかし江戸登りの道は、舟行ばかりでなく氏家―阿久津から鬼怒川を渡り宇都宮に出て、こゝから日光街道を南下し、江戸に行く道も利用されていたことは申すまでもない。奥州道中の宿駅越堀宿は黒羽藩の領内にあったので、城下の黒羽と越堀宿との結びつきは一層密接となった。また藩にとっては関街道の通過地であった寒井宿は越堀とともに奥州道中との結びつきの上からも重要性を増した。

奥州街道への道

 さきに町誌編さん専門委員会が近世における道標の悉皆調査を実施してきたが、その成果を、本誌「碑塔類」の項に詳記したが、野仏をふくめてその分布の密度をみると近世における主幹道路、特に関街道筋の寒井と余瀬とその周辺により多く分布している。このことは近世以降も重要な道路としての使命を保っていたことがよくわかる。
 奥州道中の脇街道としての機能は単に曽ての関街道・鎌倉街道などの官道であったところばかりでなく久野又―河原―伊王野間もその役割をよく果していた。なお河原には問屋がおかれた。