三 助郷

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 街道筋の宿場には、伝馬問屋があり、人足二十五人と馬二十五匹が置かれ、これらの人馬は荷物や馬にのりたい人を次の宿まで送った。しかし、しだいに交通量が多くなってくると宿場に住んでいる人たちが当番で当たる伝馬役が不足してきた。特に日光東照宮を控えていた下野国の場合は、奉幣使が差遣されたり名代や大名の往来や行列でにぎわったので、これを補う必要があった。そこで、常備の伝馬役では間に合わないので、黒羽藩領内の村々からも助郷といってその援助をすることになっていた。助郷の勤め役を助郷役と称した。例えば両郷村でどの位の人馬を出すかということは宿場によってきめられていたという。このことを定助郷といった。定助郷村数は奥州道中の場合、白沢宿三十一、氏家宿二十五、喜連川宿二十八、佐久山宿三十五、大田原宿三十、鍋掛宿十九、越堀宿二十三、芦野宿十六、であったという。なおこの助郷制が全て整ってきたのは、元禄九年(一六九六)のころになってからである。しかし定助郷で間にあわなかったときは加助郷といって臨時の助郷が村々に割当てられた。
 このような助郷に農繁期でも働き手である十六歳―六十歳の男子が、いく日も宿場に詰めてその役を果したのである。しかも割当人馬が出せないときは金で雇って出したという。従って助郷役は、農民の大きな負担となっていた。
 次にこの例として「助郷高組合約定之事」(須賀川村三組・野上村四組・大輪村)を「助郷高約定覚」(天保六年(一八三五))をもとに、その概要を示そう。

助郷高組合約定に関する文書

 須賀川村・野上村・大輪の三ケ村は、古来、越堀宿加助郷々廿四ケ村組合であったが、天保六未年(一八三五)のこと大田原宿増助郷の願があったので、中川亮平などが村々を見分した後、大輪村名主弥右衛門、野上村惣代大塩村名主清兵衛、須賀川村惣代下組長左衛の三人は、九月廿九日御役所に出向いて大田原宿増助郷を仰せつけられた。勤高は左の通りであった。
一 村高千弐百拾九石七斗
   内高三百五拾六石七斗 川落荒所引
  差引
   高八百六拾三石 大田原宿増助郷御勤高
            須賀川村 三組
一 村高七百五拾五石六斗九升八合
   内高弐百拾四石六斗九升八合
  差引         川落荒所引
   高五百四拾壱石 右同断
             野上村 四組
 一 村高四百八石
   内高百七拾五石   川落荒所引
  差引
   高弐百三拾三石 右同断
 右の通り大田原宿永久助郷に仰せつけられたので、三ケ村一同驚き入ったが止むを得ないことと、右宿方へ受け書を差し出した。しかし、勤め方の儀が不案内であったので、越堀宿玉子屋喜七と大谷村左平の両人にお願いした。触れがあり受け書を差し出して置いた。ところが同年十二月になって、大田原領分明宿村利平と申す者に請負させた。そこで勤方の分三ケ村高にて千六百三拾七石にて壱ケ年金百両也と約定して手金三拾両渡したところ、右の利平は大田原様より受負を御差し留めに相成り、破談に相成った。そこでまた喜七様にお願いして勤方の世話を願ったがそのまゝ差し置かれ、三ケ村では大難渋したという。そこで歎願を再三続けた。その間いろ/\いきさつがあったが、三年目の天保十一年(一八四〇)の九月初めになって、深谷遠江守様御役所より御差紙が来て、十一月三日御役所に出向いたところ、従来喜連川宿・佐久山宿・大田原宿・越堀宿、右四ケ宿の助郷に当っていたので宿々助郷夫に御様替の上、三ケ村は、大田原助郷については御免除に相成り越堀宿定助郷を仰せつけられた。高割は左の通りである。
 一 勤高 八百七拾石
   但 大田原宿勤高八百六拾三石
 差引
   高七石増ニ相成申候
            須賀川村
一 勤高五百四拾五石
   但 大田原宿勤高五百四拾壱石
 差引
   高四石増ニ相成申候
            野上村
一 勤高三百拾五石
   但 大田原宿勤高弐百三拾三石
 差引
   高八拾弐石増ニ相成申候
            大輪村
 このようなわけで、天保六年(一八三五)未七月より、天保九年(一八三八)戊十月迄、大田原宿との係り合いと村の入用金その他度々の出府の費用などで三ケ村惣高金千四百両余も費したという。その上越堀宿定助郷にきまってしまったという。なおその後、助郷共ニ御領分御手切りの事があり、御証文高帳は御上様御引揚げに相成って村々平均高をもって相勤めるよう仰せつけられることになったという。この「助郷高約定覚」は、口伝であったが、大輪村名主吉成忠右ヱ門が、書き留めて置いたものである。
 次に、助郷関係文書をいくつか掲げ参考資料とする。
  (参考)
    1.寛文十二年(一六七二)御奉書写
       御奉書写
一筆令啓上候、奥州海道芦野町伝馬少候間、従其方領分定助馬并ニ人足等出之候様可被申付、委細は高木伊勢守より相違候間被 得其意候

                     板倉内膳正
                     土屋但馬守
                     久世大和守
                     稲葉美濃守
  那須遠江守殿
  大関信濃守殿
 右芦野町伝馬数不足ニ付、書面之村々高都合千百三拾七石余之処并ニ大関信濃守領内村之高三千六拾三石余之所、芦野町定助馬、同人足被 仰付候、芦野町中と申談、無懈怠勤仕候様、堅可申付候、若滞り候儀於有之は曲事旨、是又可申渡候
   寛文十二年子六月三日
                     高木伊勢守
  大関信濃守殿
(渡辺家文書)

 
  2.御用留「今市宿当分助郷」
 
    今市宿当分助郷
一 高壱万八千三百石
   内高弐千七百五拾六石 定助郷村々
   高壱万五千五百四拾四石
           此度当分助郷申付候分
      此訳
 佐久山宿助郷残       野州那須郡
  高三百石             祥田村
 同高五百石             川戸村
 同高百六拾三石           三斗内村
 同高七拾三石            鷹巣村
 同高四拾四石            平沢村
  高弐百石             下滝村
  高百石              八塩村
  高弐百五拾石           阿久津村
 越堀宿助郷残
  高弐百石             石井沢村
 同高弐百石             寒井村
  高八拾四石            蜂巣村
 越堀宿助郷残
  高弐百四石            桧沢村
 佐久山宿助郷残
  高百五拾四石           蛭畑村
  高五拾石             宇井村
  高四拾四石            小河原村
  高弐百四拾弐石          高瀬村
 佐久山宿助郷残
  高百五拾石            曲田村
 同断高百八拾八石          奥沢村
 越堀宿助郷残
  高弐百五拾五石          大輪村
 右同断高八拾七石          小滝村
  高三百石             上滝村
 越堀宿助郷残
  高百石              余瀬村
 助郷高残            都賀郡
  高千三百弐拾石四斗四升壱合    板荷村
  高弐千弐百四拾六石六斗七升三合  葛生村
  高千七百六石五斗九升       大柿村
                 塩谷郡
  高百四拾七石九斗六升三合     中柏崎村
                 足利郡
  高六百六拾六石九斗九升六合    西場村
  高三百四拾七石九斗壱升九合    上菱村
  高五百九拾三石九斗三升      下菱村
  高三百九拾八石五斗八升七合五勺八才 菅田村
  高九百三石七斗弐升九合      小友村
  高五百七拾石四斗四升三合     利保村
  高三百弐拾弐石七斗弐升壱合    江川村
  高三百七拾五石七斗壱合      常見村
  高五百四拾弐石五斗八升五合    葉鹿村
  高四百九拾六石八斗壱升九合    大前村
  高四百三拾四石八斗三升弐合    板倉村
 石橋宿助郷残
  高三百三拾石七升四勺弐才     稲岡村
   外
右は、定助郷之内日光 御神領并御用懸領分、当分除之
右は、当四月日光就 御参詣、今市宿当分助郷申付候間、三月朔日より四月廿九日迄、宿方より触当次第人馬無滞可差出候、若於不参は、可為曲事候、四月過候ハヽ、此帳面可相返もの也
  天保十四卯二月     土佐 御印
              能登 御印
              丹後 御印
              今市宿
               問屋
               年寄
            右助郷村々
               名主
               組頭
 
一 人足八人壱分     三斗内村
   馬弐疋四分
一 人足三人六分     鷹巣村
   馬壱疋壱分
 三月朔日詰
御参詣御用御懸り  御役人中様・諸家様御荷物
 
右御通行被遊候ニ付、御朱印御証文人馬、宿勤之外、助郷人馬割、左之書面之通触当候間、正人馬ニて無間違相揃候様可被成候、尤稀成大御用ニ付、当分之処、左之通触置、猶又追て御通行相増次第触可致間、其段御心得可被成候、已上

    二月廿九日         日光道中
                    今市宿
                     問屋 覚左衛門
                     年寄 弥五右衛門
                     同 孫三郎
    百石ニ付人足五人割、馬壱疋五分
今般日光道中今市宿助郷人馬勤方之儀ニ付、当三月朔日より四月廿九日迄相詰候様被申付、右ニ付十五日替り相勤可申儀定連印如件

               三日出 太郎左衛門 印
               同   市郎右衛門 印
               同   宗平    印
               四日出 太郎左衛門 印
      此替り承知印形 十六日出 与惣右衛門
                   要之助   印
                   長十郎   印
                   三左衛門  印
                   倉蔵    印
                   貞蔵    印
   (下略)
(森家文書)

   3.助郷高並家数人馬書上帳
 (表紙)
  天保十三寅年
 助郷高并家数人馬書上帳
  四月
        野州那須郡両郷村
 (本文)
一高四百弐拾三石  篠田藤四郎御領所
           野州那須郡
                 両郷村
  内
   高百拾石壱斗五合   荒地高
   高三百四拾石四斗   奥州道中芦野宿定助郷相勤申候
   高七拾九石      日光鉢石宿随時大御通行之節加助郷被被仰付相勤申候
 
   高三拾石       村役人給高村方諸役余荷
    〆高五百五拾九石五斗五合
  差引
   高百三拾六石五斗五合    村方諸役并勤高
一家数弐拾八軒
     男人数六拾三人
      内十六人  十五以下
        三人  六十以上
       十五人  病身もの
        七人  他出奉公
        五人  村役人
        壱人  小定使
        壱人  醫師
        〆四拾八人
      残 拾五人 御継立ケ成可相勤者
      馬十五疋
       内拾弐疋 老馬
           三疋  御継立ケ成可相勤馬
     右之通相違無御座候
 
  一、当村方之儀者 日光山
御参詣之節者奥州道中芦野宿江継立可相成可人馬不残定詰切被仰付相勤申候然ル処今般□馬并家数人馬□々御調ニ付前書之通奉書上候何卒先例之通芦野宿一方江相勤候様奉願迄候何卒格別之以御慈悲御聞済被成下置ハ、村方一統相助ケ誠以難有仕合ニ奉存候以上

                     右村
                       名主  儀左衛門
                       組頭  瀬左衛門
                       〃   友右衛門
                       百姓代 久兵衛
                       〃   倉之助
  4.口上書ヲ以奉申上候
一、野州那須郡両郷村之儀者日光山江諸家様随時大道通行御座候節ハ御当宿加助郷相勤申候、先年村高四百弐拾三石迄人馬御割觸有之節奥州道中芦野宿定助郷之村方ニ而殊ニ極窮村二重役ニ相成難渋至極仕候儀ニ付文政六未年十月中御代官古山善吉様御役所江奉願上候所同御役所ゟ道中御奉行様江御伺被成下置候処芦野宿定助郷高三百四拾石四斗除之残高七拾九石者大御通行之節鉢石宿加助郷相勤様被仰渡向後御觸有之候共定助郷高除之残高七拾九石之分人馬可差出候、此内過当之人馬差出し申間敷候若又心得違ヲ以餘分之人馬差出候ハヽ村役人共中為越度旨被仰渡承知奉畏帰村付同年十二月中村方組頭文右衛門を以右之趣御当宿御役席迄無相違御達し申上置候儀ニ御座候

一、天保八酉年九月中、日光山御大礼之節村高四百弐拾三石当御觸御座候処、芦野宿定助郷高除之残高七拾九石分大田原宿秋元六右衛門当申者迄相頼ミ買揚人馬を以相勤申候、私共村方之儀者道中御奉行所様御伺済ニ御座候得共外村々当ハ相違仕候儀ニ御座候間此度御觸人馬之儀毛前書之通高七拾九石之分ハ御割合人馬差出シ可申候間此段御賢察之御取計ヲ以勤方相濟候様願上候 以上

          大草太郎右衛門御代官所
              野州那須郡両郷村
 
                     百姓代 庄兵衛印
      嘉永三戊年四月        組頭  瀬左衛門印
                     名主  齢介印
   日光鉢石宿
    御名主 杉江太右衛門 様
            外御役人中 様