原街道は原方を通る道である。原方の呼称は文化九年(一八一二)の記録に「下野国那須郡の中に中川(那珂川)といへる流あり。其西の原を大原といひ、東の原を東原と呼べり。此の東原をすべて原方と唱へる也」(『栃木の街道』による)従って原方とは、蛇尾川以東の那須扇状地の乾燥原の総称であると考えてもよい。原街道は、白河(福島県)から奥州道中の一宿駅である氏家宿に至る街道である。途中の宿駅は白河―黒川―夕狩―迯室―小島―高久―東小屋―槻沢(つきのきさわ)・平沢・鷲宿―氏家であるが、実質的には終点を廻米の関係上、鬼怒川筋河岸場のある上阿久津までゞあった。(注・氏家―阿久津間は奥州道中筋である。)
原街道通路図
この街道の開設は『白河風土記』によると元和三年(一六一七)日光廟造営のとき、三春領大越村の水晶、硝石等の輸送したことからとしているが正保二年(一六四五)勘定奉行伊丹順斎が官道にしたとある。しかし一般には正保二年会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)が、藩米を廻米輸送を目的として開いたときをそのはじめとしている。商家の輸送もおこなった。しかし、廻米の輸送が主であったのでこの原街道のことを「米街道」とも称したという。また会津藩ばかりでなく、白河藩や二本松藩もこの街道を利用したという。この原街道は五街道と異って、本陣・脇本陣もなく一宿一軒の問屋が置かれ、附子村が付随していたに過ぎないという。附子村の百姓は駄賃稼ぎで現金収入を得たのである。
附子たちは「いやだいやだよ馬方渡世(とせい) 馬の手綱で日を暮らす」「寒い寒いよ峠を越せば めざす白河あのあたり」と馬子唄を唄いながら厳しさに堪えて、米の輸送に当った。この原方に住む百姓は貧農が多かったという。その名残りか、同地方の田植歌に「わたしゃ原方ヒエ飯育ち 米のなる木は知りやせぬ」とある。(注・この地方には水田がほとんどなかったという)
この街道は米附街道として最もその機能を発揮したのは元禄・享保期(一六八八~一七三六)の間であったという。この時期は幕藩体制の充実期で諸国の産業も発達し、全国的な規模で市場が形成されたときである。従って奥州道中などの官道の交通量はます/\増大し、輸送荷物の停滞や遅延がみられた。脇街道の利用は公認されていた。この街道筋の黒羽藩領の「夕狩・小島・高久」宿も、人馬の往来で活況を呈した。このことは古文書などによく表われている。
夕狩宿には上(かみ)と下(しも)の問屋があり、迯室(にがしむろ)にも二軒、小島宿と高久宿に各一軒みられた。なお高久宿の高久氏は近郷十数か村の総名主で、元禄期には芭蕉一行も逗留した家柄である。
原街道と黒羽城下との結びつきは那珂川本流沿いの越堀を経由して高久宿と、余笹川沿いの稲沢・沼ノ井・寺子を経て小島宿と、さらに伊王野から黒川を溯って夕狩方面などに連絡する道が通じていた。逆にこれを考えると、原方の黒羽藩領の村々は主として那珂川の本流か支流である余笹川・黒川・奈良川沿いに点々と分布している。そしてその幾つかの集落が、原街道の宿駅として発達し、こゝと連絡する道が川沿いに通じたと云えよう。黒羽地方の人々は、黒羽と原方街道筋の村々と結ぶ道も含めて、広い意味での原方道と呼んでいたのである。白河藩など諸藩の廻米や諸荷物は白河から奥州道中と原街道を通じ氏家の外港阿久津河岸を経て江戸に送られることが強化され、黒羽河岸へ送られてくる廻米がすくなくなったので天保年間(一八三八年ころ)に、黒羽河岸問屋阿久津源兵衛は、商圏の拡大と輸送力を高めるため、稲沢と越堀に出河岸を設け、さらに黒川に荷置小屋と称して新河岸を開いた。細い水路を荷物積舟を下すことは容易ではなかったが、水路は陸路馬の背で運ぶよりも一度に大量運ぶことができることに期待したからである。経済的にみると効率のわるいことであったが、商圏の拡大のため尽した業績は評価されよう。