五 棚倉街道と浜街道

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 棚倉町(たなくらまち)(福島県)に通ずる道を黒羽町の辺(あた)りで棚倉道と呼称している。旧奥州街道筋の中田原(大田原)か市野沢へ行く道筋の市野沢小学校正門通りと小滝(大田原市)への道の分岐点に道標がある。銘文に正面「南無阿弥陀仏」南面「右 たなくら」「左奥州……」とあり裏面に「元禄七(一六九四)年七月二十日」と刻んである。そして小滝から乙連沢十文字、羽田を経て寒井の刑務所前を通り寒井の山王さん前に出る道路を現在でも棚倉道と呼んでいる。
 寒井宿北山王さん前に道標がある。正面本体と台石に「白雲山秋葉山」などの記銘があり、向って右側面本体に「寛政九丁己十一月 日」、台石に「伊王野二里 棚倉九里 浅川十一里」とある。
 寒井宿から棚倉までは東山道の道筋を伊王野―坂本―梓―蓑沢―大畑―追分で福島県に入り白河の関を越し旗宿―中野―金山を経て棚倉町に達した。なお坂本・梓付近からの道もある。
 (注)この棚倉道は戊辰役の黒羽藩の白河―棚倉攻めに進んだ道である。
 古くは日光・今市方面と福島県の棚倉方面と結ぶ街道を棚倉街道と称したことがあるが、日光に東照宮が建てられてからは、大田原から今市・日光を結ぶ街道として日光道とか日光街道と呼ぶようになったともいわれている。今の日光北街道である。
 南方から八溝林道(峰越三県連絡林道八溝山線)で栃木・茨城・福島の三県合流点へロータリーから中野沢―大梅を経て棚倉に達する道もある。これは久慈川の流れを下る道で、近世の頃は山間の小径であった。八溝山頂付近から大子町蛇穴に通ずる道もある。
 浜街道は黒羽城下から水戸方面に出る道である。
 『創垂可継』『封域郷村誌』の「田町」の項に「…八溝山札所への通り水戸白川への細道もこれあり」とある。また「前田町」の項に「…川東は水戸東浜への道これ有り」とある。「堀之内村」の項に「道筋東は大山田・須賀川・水戸浜への道、北は伊王野・芦野の方、南は馬頭・烏山・福原・大田原などへ出る。」とある。「松木内村」にも「往来黒羽より水戸筋へ通りこれ有り」とある。「野上村」の項に「…郷中往来有り、水戸筋へ溝へも通る」とある。唐松峠を越した「須佐木中組」の項に「往来黒羽保内浜辺へ通ず」とある。さらに明神峠を越した「須賀川中組」の項に「郷中に往来道これあり須佐木より水戸領金沢村へ通り、東の方左貫村より西の方水戸領大山田村へ通る。」とある。「須佐木上組」に「往来東は水戸領保内道、西は須佐木道」とある。
 このように黒羽城東の村々は浜街道の道筋にあり、それ/゛\「水戸・白川への細道」、「水戸東浜への道」、「水戸浜への道」、「水戸筋への通り」、「保内浜辺へ通ず」、「水戸領金沢村へ通り」、「水戸領保内道」などと表現し、主な街道としてこれを捉えていたことがわかる。黒羽郭内から松葉(堀之内)に出て松葉川を渡り小前田に達し、構え場の北側の坂を登り、鉢木原中を通り松木内へ出る道筋は、いわゆる浜街道の古道である。野上から唐松峠を越し須佐木にいった街道は明神峠を越し須賀川の根岸に達し、要害の麓を南下し、宿(しゅく)から関ノ田和に出て佐貫方面に出るか、根岸から押川沿いに須賀川の郷を南下し石畑から上金沢を経て大子方面へ出る道が古道である。後者は古くから「金沢道」と呼ばれ、八溝の産金地を通過する。
 須佐木から武茂川沿いに北上すれば、雲岩寺―川上―南方への道で、いわゆる八溝道である。径はほそく、武茂川の崖端を通るか、山裾を縫うように通過し、集落を点綴する。
 八溝路は、八溝嶺神社や日輪寺などの登拝の道であるが那須・棚倉・大子方面との連絡路でもある。
 黒羽町地内は山地が多く交通上の障害をなしているが、浸食谷が山頂近くまで開けているので峰越しの古道が開け文化の伝達路となった。