草を踏み分けてつくられた自然発生的な道は、けもの道に類するものであるが、道路交通は陸上交通のうちで最も古いもので、集落と集落とを結ぶ小径は、現在も黒羽地方に多く残されている。桧木沢一帯は農村基盤の整備で面目を一新したが、曽ては、湧水地に家を構え、農地を開き、集落と集落を結ぶ小径がうね/\と耕作地をめぐっていた。路傍には野仏が祀られ、辻には道標が立てられていた。
やがて遠く離れた場所と連絡する道路がつくられていった。道路交通の助けとなる施設や手段も整えられ街道と呼ばれるようになった。東山道はその代表的なものの一つである。
川と道とは文化の伝達路である。黒羽地方は古くから那珂川上流に開けた文化圏のなかにあるが、道の果した役割は大きい。
曽て黒羽地方には東山道があり、鎌倉街道ができ、浜街道・棚倉街道も機能を発揮し、黒羽城下であったこともあり、文化が栄えたところである。そして東北本線開通後は黒羽と西那須野間に東野鉄道が開通させた。
しかし、時代の進運とともに奥州街道、国道四号線、東北高速道路と主要交通機関の西遷をみている。またこれに呼応し、これらと結ぶ主幹道路が整備され、近世のころの道が消滅したり、寸断をみているところもある。野仏や道標も安住の地を求めて移転されている。
江戸時代は伊勢参りとか熊野詣、御岳登山などの旅がよくなされた。これらの道中手形や、旅日記、旅行具なども残され、当時の旅を偲ぶよすがとなっている。
黒羽地方に伝わる民話や昔話などをみると街道筋に似かよったものが残されていることがよくわかる。関街道沿いの余瀬・寒井と近傍の大輪などには余一伝説や源家にまつわる話などが多く残され、近世のころさらに温められ今日もなお語り継がれている。
近世には参勤交代の制があり、江戸文化の吸収は最も大きく、また街道筋の宿郷村々の文化の導入もまた大きかった。黒羽の文化を考えるとき、道との関係を問わないわけにはいかない。