三 街道筋の問屋

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 陸路である街道筋にも問屋が置かれた。
 黒羽の城下町「黒羽向町」の白河屋(現在の当主阿久津健蔵氏)がその一つである。同家に荷送りに関する問屋関係の文書が残されているが、それによると、寒井、余瀬、喜連川などの問屋の名が記してある。
 関街道(福原街道ともいう)からの問屋に余瀬の蓮実家(当主蓮実彊氏)がある。今でも屋号を問屋(とんや)という。同家の先祖は俳諧をよくし、芭蕉が余瀬翠桃亭で歌仙が営んだときの桃里(俳号)がその人である。なお寒井宿にも問屋が置かれたことは、さきにふれた通りである。
 前堀村の名主菊池(後に鈴木と改む)掃部右衛門は河原は延宝元年(一六七三)三月川押の跡の河原敷を継百四十間余、横四十間にわたって開拓した。そして、此処に前堀・横道・八津・志道内・円応寺などから都合二十六戸をこの地に移し、町割をなし、村の中央に問屋を設けたという。掃部右衛門は名主問屋の両役を申しつかり、持高の内二十五石は諸役御免になったという。なおこの辺りは古く大蔵村(おおくらむら)と称したからこれより河原村と改めたという。
 黒羽向町阿久津健三氏の先祖は治右衛門光清(増重、隠居して一叶斉という)は、天正年中大関高増が大田原から黒羽藩主大関家に御入城のとき、附け人として供奉した家柄で、代々町年寄をしていた。そして問屋株をもっていた豪商である。前頁の略図は文政十二年頃の居宅・店舗・倉庫などの配置とその間取図である。

文政十有二星次巳丑芒種吉辰
商家居宅店舗、倉庫配置図(問屋阿久津家)

 『組合村々地頭性名其外書上帳』(安政二(一八五五)卯年三月 寄せ場黒羽町外四拾八ケ村)によると、寒井村は江戸江道法三十九里の位置にあり、奥州道中脇往還であったので、継立問屋があった。次は『書上帳』にある、問屋(甚右衛門)の位置図と関係のある箇所の文を掲げる。
 
                        寒井村
 一 奥州道中脇往還継立問屋          甚右衛門
 一 茶屋渡世之者                久之助
 一 那賀(珂)川附之村々而平日橋渡ニ御座候
       (寒井宿問屋位置図) ―前掲「那珂川筋の対岸交通」参照