2、右返答書

463 ~ 464
     元禄八年十月 喜連川町他返答書
    乍恐以返答書申上候御事
一 奥州より江戸往来之道筋、本道、関海道、原方海道と申三筋御座候て、諸荷物上下仕候由、偽りに御座候事

一 本海道之儀、先年より白川迄御 高札場ニて、御 朱印人馬并武士御荷物、諸商人共に附送り申候、然処ニ、奥筋より罷出候米荷物、会津加藤左馬之助様、白川丹羽五郎左衛門様御拝領已後、大分罷通候ニ付、御伝馬宿計にて難送、いつとなく間之宿にても米荷物附送り、御伝馬宿荷物不足ニて、困窮ニ罷成申付、芦野町より喜連川町迄宿々、古高木伊勢守様御代ニ、右之様子御訴訟申上候処ニ先年之通米荷物迄不残御伝馬次ニ被仰付、若御伝馬次ニて滞申候は、間之宿へも可滞分之米荷物はかけ申様ニと被仰付候、然処ニ近年御伝馬宿を除キ、本荷物迄少し白川より関道へ出申候ニ付、本海道之宿々より当四月白川へ相詰、松平大和守様御役人衆へ御訴訟申上候ニ付、本荷物先年之通本道へ被仰付候事

一 関道之儀、駄賃銭下直ニ御座候由申上候、本海道ニても武士御荷物御定之駄賃銭より商人荷物ハ下直ニ仕、次送り申候事

一 御大名様方御通り之節ハ、関道より寄人馬本道へ出候由申上候、寄人馬入申節は、本道之間之宿村々より寄人馬仕、其にても不足之節ハ不限関道筋ニ、御伝馬宿近所之村々より寄人馬仕候事

一 御大名様方鍋掛川洪水之時分ハ、関道御通被成候由申上候段偽に御座候、右之川増、往来留り候時分、鍋掛計のそき、登りハ芦野町より黒羽舟渡りへ廻り、大田原町へ附出し、下りハ大田原より右之通芦野へ附出し申候事

右申上候通、本海道宿之儀は、御 朱印人馬并武士御荷物昼夜相勤、殊近年は御伝馬役も多相勤申候、御伝馬宿之たそくに罷成申候、商人荷物は、御伝馬宿をのそき、脇道へ往来いたし、迷惑仕候間、従御 公儀様先年御伝馬宿を除キ不申様ニ被仰付候趣、宿々より白川へ御訴訟申上候へ共、先年之通被仰付候、此外ニも御伝馬宿除キ申所、御訴訟申上へきと奉存候処ニ、関道之者共邪成儀申上候、以御慈悲人馬持続、往還役相勤り申様ニ被 仰付被下候は、難有可奉存候、   以上
                       喜連川左兵衛領
  元禄八年十月十四日            喜連川町
                            久左衛門
                       福原内匠領
                            佐久山町
                            次左衛門
                       大田原和泉守領
                           大田原町
                           十郎右衛門
                       外山小作領
                            助之丞
                            源蔵
                            茂左衛門
                            加左衛門
                           六郎右衛門
    御奉行所様
(印南家文書)