藩学何陋館は、黒羽藩主、大関増業が、藩士の子弟教育のため、文政三年(一八二〇)黒羽町大字前田、旧黒羽藩士、小山権四郎の宅地の東に創立した。なお、『大関増業年賦』には「文化末年のころ藩学何陋館および練武館を建立す」とある。
館名の出典は「子欲居九夷或曰、陋如之何、子曰、君子居之、何陋之有」(論語第五巻第九子罕(しかん)編、十四)に據ったものとみられている。増業は、賀茂規清について、烏伝神道を究めた。敬神の念が極めて厚く、この方面に関しては、「常夜の長鳴鳥」の著書(天保十一年刊行)がある。なお、師の賀茂規清の著書「烏伝神道大意」「烏伝抜除抄」「烏伝神道根元之弁」の三種を自費で出版して、斯道の弘布に努めたほどであった。また、「黒羽版日本書紀」「日本書紀文字錯乱考」を刊行して、皇道精神の涵養に努めた明君であるから、伺陋館の創立は、もっぱら皇道の闡明に重きを置いた。当時の藩学は、いずれも漢学を主としたのに反して、国学第一、漢学第二とした。したがって教師も、豊後の人、国学者戸高孝盛(曲浦、秀真の称もある)を迎えて教官とした。孝盛には、「本紀啓蒙」「神軍考」の著書がある。漢学の方は、侍医の田中脩平及び大沼助兵衛(藩士)を命じた。増業は、大名には珍らしい学究の人で、著書には兵学の『止戈枢要』(百六十六巻、写本)、政治の『創垂可継』(七十一巻)、科学の「鍍金秘伝」、機織の「機織彙編」等十数種の著書がある。この名君は、文政六年(一八二三)大関氏世嗣上の紛議によって引退しなければならない破目に陥り、江戸箕輪の藩邸に隠居したので、同年何陋館も廃止となったという。何陋館の講堂には、左の訓条を記して掲示し常に書生の眼に触れさせた。