1 創立

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安政四年(一八五七)五月前記何陋館のあったところに、藩主大関増式が設置して、作新館と称した。
  (可陋館・練武園を継承し、大関増昭が学問所を再興し、これを大雄寺に置き、野口行蔵らを学頭にしたという(滝田家御用留)。また、文久三年(一八六三)に大関増裕が創設し作新館と称したとする説がある。)
 館の名称は、大学の「湯之盤ノ銘ニ曰ク 苟日ニ新タニ 日日ニ新タニ 又日ニ新タナリト 康詰ニ曰ク 作ス新民ヲ」から取ったものである。盤は、沐浴に用いる金属の器で、それに殷の湯王は自己を警省するために刻みつけた文句だが、人がその心を洗濯して、悪を去り、その身を沐浴して、垢を取り去るようにしたいとの心構えから、苟(まこと)に能く一日、その垢に染ったけがれを洗い落として、自分から清く新にすれば、すなわちその已に新になったところによって、日々これを新にし、また日にこれを新にして、寸時も間断なく精進すべきである。そうして、その自ら心を清けく新にして、革に進む民衆を振い起こし、もって天下の民俗を一新するという意義深い心を寓しての命名であった。