設置後十四年を経た明治四年(一八七一)十月、藩知事大関増勤(ますとし)、明治戊辰戦争の軍功により、賞典禄一万五千石(大関氏御朱印高一万八千石)を授与された中、百五十石を割いて、作新館の経費に充て、前田村郭内九百五十一番地の官有地一反八畝三歩の地所を、五か年を一期とし、一か年拝借料金壱円三十五銭七厘五毛(壱反歩金七十五銭の割)で拝借して、館舎を新築移転し、翌十一月十日開校した。尚、明治六年十二月に提出した私学開業願書をみると、改築の際に百五十石の半額七十五石を消費して、残り七十五石が維持費として残したことになっている。そのほかに旧藩士の高禄者十五名が、その禄高に応じて出し合い九石九斗を館の維持費に寄付したのである。
作新館には寄宿寮を設けて、塾生の希望者を収容した。寮費は、月に白米一斗五升、味噌五百匁、ほかに菜代金弐拾銭を徴収することにした。
改築費の総額は、金一千五百両、人夫は一万五千人であった。塾頭三田称平の男恒介は作新館改作記を作って残してある。