黒羽藩は大関高増築城以来、那須七騎の一として武勇をとどろかせたが、その子孫相次いで明治に及んでいる。その間、増業、増裕の二名君を出している。増業については、すでに述べたところである。増裕は文久元年(一八六一)増徳に次で家督を相続したが、彼は当時下野藩中第一の賢君であり、先代増業と共に黒羽藩の高風を培った人物で、進歩的思想をもって洋書に親しみ、外人と交わり、西洋の兵式をとり入れて一藩の武備を張るなど明治の徴兵令に先駆をなした功績は偉大である。また、農業政策を重視し、よく百姓を愛撫し、勤倹貯蓄の美風を振作して、大いに学問を奨励したが、三十一歳の短命をもって慶応三年(一八六七)に病没した。また、戊辰の役に際して、勤皇の義軍を起こし、全藩を挙げて奮斗したことは残されている数々の賞状によっても知られる。
このような黒羽藩の善政による文教政策はその藩内に多くの人材を生み出していることは、大田原、烏山藩と共に、教育上注目すべきことである。藩老鈴木為蝶軒は、下野藩内随一の家老であると称され、鈴木石橋、蒲生君平・高山彦九郎等と交わり、領内を巡視して、備荒貯蓄を力説して、大いに農政に力を尽すなど、その著「農喩」によってその識見がうかがわれる。更に、画家小泉斐、荻生徂徠の門人として五大家の一人に数えられた安藤東野、民権論の先峰をなした荒川高俊、明治初年陸軍にあって重きをなした大沼渉等ことごとく黒羽城下の出身である。 (文献 栃木県教育史)