日本教育史資料によると、文明年間(一四六九)から元和年間(一六一五)に至る百五十年間に十八の寺子屋があり、師匠には、神官、僧侶、医者、修験者等各層にわたっている。しかし未だ寺子屋の名称はなかったのではなかろうか。慶長見聞集には、手習といっている。手習の場所も寺院とは限られていなかった。手習いは、平安末期に始まるが、筆道のほか漢字や音楽、和歌や有職などの諸学問を含めたものであった。平安末期にいたり寺院に児教育(稚児教育)ということが起って俗人の子弟を教育することが始まったと言われる。ついで、鎌倉時代に入ると庶民仏教が起こり、法悦を説いたり、百姓を相手に禅をとき、田夫野人に説法をして、民衆によびかけた。更に民衆のために釈氏往来や庭訓往来などの書が僧侶によって書かれた。教育所たる寺院を五山の学僧たちは小学または村校といい、入学を登山、入寺等といった。十歳以前に入学し、三、四年間学習した。寺と学問と僧侶の関係は、江戸時代に入って寺子屋となるのである。
寺子屋(学制前)
江戸時代を通じて、寺子屋の発達をみると慶長から享和にいたる二百年間はまことに遅々たるものであったが、文化から安政(一八五四)までの六十年間に百五十九の寺子屋が建設される盛況となった。ともかく年と共に発達してきた状勢をみると、民心の手習学問に対する欲求と自覚とが、時勢とともに動いていたことが知られる。