1 教科書

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寺子屋がどんな教科書を用いたか、始めに手習の教科書についてみると、手本となったものは、いろは、数字、干支、方位、苗字尽、名頭、町村名尽、国尽、などで、大抵は師匠が手書きして与えた。また、いろはや仮名を習ったというものもあるから、この仮名は片仮名かと思われる。消息往来、商売往来、都路往来、東海道往来や童子教、千字文などもある。
 第二に読み方、実語教や童子教は早くから行なわれたとみえて、相当広く採用されている。庭訓往来、女庭訓、女今川、消息往来、商売往来、農業往来、三字経、古状揃、女小学、女大学などから百人一首、童子早学問などに及んでいる。漢籍では、大学、論語、中庸、孟子などの四書、小学、孝経、忠経や詩経、書経、易経、礼記、春秋の五経が圧倒的であった。詩では、唐詩選、そのほか蒙求、古文真宝、文章軌範、兵書では孫子、呉子などで、史書としては、十八史略、史記などが読まれた。その他日本外史、国史略、日本政記等があげられる。
 第三に算術については、和算であり、算盤であった。関流が圧倒的であった。
 手習いは、先ずいろはを習って漢字に移る。次いで、往来物になって行った。手習いには流派が多いが、そのうちで公用文に用いられた御家流が主流であった。練習用には草紙を用いた。墨黒々になってもその上に練習をした。清書の提出期は五日に一ぺん。半紙一帖で一年間習ったものがあるという。師匠はこれに評点なり評語なりをつけて返す。そして次に進む。正月なり、初午なり、天神講の行われる時、書初や清書を奉納したり親戚へ持参したりした。
 読書では、実語教、童子教、往来物などを習ったり、孝経や小学などを読んでから、四書の中の大学や論語や中庸などを学んで孟子は読むものもあるくらいの程度であった。次いで五経に入るのであるが、大部分は四書どまりであったのではないか。和漢の史書などは時代がふるに従って増加したようである。
 易などは、特殊の研究家によって究められた。なお、春秋左氏伝、文選、唐詩選、十八史略のようなものも読まれ史記だの蒙求だの文章軌範だのは極めて少なかった。
 和書では、実語教、庭訓往来、御成敗式目、今川状、童子教、消息往来、女子では、女大学、女今川などがよく読まれたらしい。

当時使用された教科書