二 磯塾

477 ~ 477
所在 黒羽町大字黒羽向町、漢方医磯玄仗が、自宅で寺子屋式に町の子弟を教えた。文久(一八六一)年間から、明治八年(一八七五)卒去するまで十余年間続いた。

科目 教科書は、実語教、庭訓往来、消息往来や日本外史の素読で、入門する者は、机を背負って行き、書物の教授が終れば習字をする。大体午前、午後の二部に分かれ、朝に通うものは正午で帰宅し、午後に通うものは、点灯時に帰宅する。そうして、朝に行けない時は、午後にしたり、午後に用事があれば午前にしたりさせて、習うものの自由にさせた。また夜間にも通うものもあった。教科書は、実語教、孝経、商売往来などを用いた。医者が本業であるから、患者も来れば、往診もするが、その時は、もっぱら習字をさせたから、先生がいなくとも、塾生には大した差し支えもなかった。授業料はとらず、筆子は常に男女二十名内外であった。盆と暮と正月の三度、各自随意に贈り物をしたり、祝祭日にも贈り物をして、先生に対するお礼の志とした。

師匠 玄仗の家は、代々医を業とした。文化二年(一八〇五)の生まれで、幼年黒羽藩の儒者大沼金門(三田地山の師匠)について漢籍を学び、のち水戸の名医伯本間に入門して医学を修め、業成って帰郷し、家業をついで、黒羽藩主大関侯の典医を命ぜられ、同役七名の上席匙頭に進んだ。当時藩学作新館は設立されていたが、藩士の子弟を教育するところであったから、商人町の黒羽向町庶民の子弟のために家塾を開いた。したがってその教授は町人としての実用向きを第一とした。

   明治八年(一八七五)五月十二日七十一歳で没した。