3 佐藤塾

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所在 黒羽町前田黒羽藩士佐藤真小一が自宅で教授した。

科目 黒羽城郭内の藩士の子弟男子に漢文を教授した。開塾は元治元年(一八六四)で、明治四、五年頃まで約七、八年間続いた。

師匠 佐藤真小一はのちに姓を那須と改め、諱は均であったから、世には那須均をもって知られている。天保十二年(一八四一)黒羽藩士小山田重遠の第八子に生まれ、出でて佐藤氏を継いだ。戊辰の際には、藩の密使となり、那須真子一と称して京都に上り、藩主大関増裕自筆の勤皇の密奏書を、五条少納言為栄に託して伝達した。なお京都に止まって法性寺を寓居とし、寺門に黒羽藩屯営と大書した標札を掲げ、自ら藩の家老と称して太政官に出頭し、全藩一致、力を勤王に尽すべき由を言上した。これより本姓佐藤を改めて那須と称した。戊辰の役には藩の輜重方を勤め、糧食兵器等を調えて後顧の憂なからしめた。戦争が終って功により禄八十石を増加された。廃藩ののち県外に出仕したが、のち栃木県に聘せられ、河内、安蘇、上都賀、下都賀の各郡長を歴任し、明治廿五年(一八九二)、多年の功労により従六位勲六等に叙せられ、瑞宝章を賜った。ついで会計検査補に転じ、東京に移住した。退官後東京に止まり、旧藩主大関家の顧問としてよく輔翼するところがあった。同四十一年(一九〇八)九月病歿した。享年六十八、黒羽町大雄寺に葬った。男弓雄は陸軍中将に昇進し、支那事変及び太平洋戦争に勇名を謳われたのは人のよく知るところである。均の碑は黒羽招魂社の境内に建ててある。