所在 黒羽町大字八塩(現眼科医三田政夫氏の居宅)三田称平はその号、地山をとって地山堂と称して家塾を開いた。のち称平の次男恒介が早死したのでその新宅に移った。寄宿生に浄法寺五郎(のちに陸軍中将)大塚寅次郎、浄法寺竜江など三、四名を置いた。称平は、黒羽藩学作新館の教官であったが、退官後余暇と夜間に教授した。明治五年(一八七一)から開いた。(称平の妹同町堀之内小室リリ氏談)
沿革 称平は黒羽藩士で、文化九年(一八一二)に生まれた。幼にして藩学大沼瓠落軒について漢学を、同藩士小山田稲所(国学者で耕所雑筆の遺稿がある。)について国学を修めた。安政四年(一八五七)に作新館学頭に挙げられた。この頃すでに少数の希望者たちに夜学を開いていたが、地山堂家塾として開いたのは、次の届書にあるように、前記の通り明治五年九月からである。
これは同年八月、学制が頒布されて、小学校が設立されることになり、藩学作新館も私立小学校に改組されたので、九月退職して塾を開いたわけである。しかし作新館に変則支那学科を設けたから、その教官にも任ぜられた。つまり、称平は作新館の教官のかたわら、地山堂家塾を開いたのである。
明治六年(一八七三)その筋から地山に対し私塾の件について照会があったから、左の届書を出した。(地山雑記廿一編)
記
第七大区四ノ小区
那須郡八塩村士族
三田称平
酉六十二才
漢学兼和歌
但生徒十六才以上十五人
明治六年(一八七三) 一月 三田称平
第七大区四ノ小区
那須郡八塩村士族
三田称平
酉六十二才
漢学兼和歌
但生徒十六才以上十五人
旧黒羽藩大沼瓠落軒(儒者)小山田稲所に入門、皇漢学講習仕り、天保六年(一八三五)より同十年に至る遊学中、旧幕儒官安積祐助(号艮斎)併に大阪儒士大塩平八郎等に従事仕り候。二十年以来藩務の余暇に家塾相立て、尚旧藩学頭兼務仕り候。明治四年(一八七一)九月に至り、作新館皇漢学教授専務に相雇はれ、同五年九月退職、第七大区四ノ小区二百四番屋敷に寄留仕候処、従学の者の望に依って、聊か開業仕居り候。依之履歴申上候。
明治六年(一八七三) 一月 三田称平
(備考)右の届書に「第七大区四ノ小区」とあるのは、明治五年学制を定め、日本全国を八大学区に分ち、更に大学区を分けて三十二中学区に分け、この中学区を二百十小学区としたので、七大学区の中の第四小学区に当る八塩村というのである。
同二十六年(一八九三)七月、地山は八十二歳で卒去したが、開塾の同五年から廿一年間も塾の教授を続けたのである。
科目 地山の学統は安積艮斎に師事したから、朱子学であるが、天保五年(一八三四)から七年にいたる間において(藩主大阪勤番中)大塩平八郎にもついたので、陽明学の影響を受け、授業は字面の解釈に偏せず、専ら文章に盛られた趣旨精神を把握させることに力を注いだ。それから地山は貧しい中に書物を写し取って読んだ経験があるから、貧しいものには、書物の代金を立て替えて買ってやり、読み終えたら、買価の二割引で、もとの書店に売り戻して、更に他の書物を買うことにして、便宜を図ってやった。
授業には別に時間割もなく、生徒の都合次第で、昼でも夜でも、来る者は個人別に教えることにした。教科書は四書(大学、中庸、孟子、論語)を主とした。国語の方は希望によって短歌を添作してやる程度にすぎなかった。
地山堂に通う生徒は、ほとんど十六歳以上の青年層であるから、子供扱いにせず、一個人として接した。
地山は小山田稲所(叔父に当る。)について国学を修めたから、歌も詠んだので、作歌の好きな生徒には添削もしてやった。それで本郡内の神職にその筋から依頼されて、祝詞の講義をした。同十一年(一八七八)四月には、正式の神官に任命され、旧金田村郷社那須神社(八幡宮)の祠官になった。
地山の門弟は、作新館と家塾とを合わせると一千余人に上る。家塾の門人で出色あるものは、黒羽向町の荒川高俊である。高俊は地山塾で漢学を修め、上京して慶応義塾に学び、福沢翁の自由主義の洗礼を受けて、自由民権論を天下に提唱し、国会開設の基盤を造った政治家である。
地山は驚くべき達筆な人であって、暇さえあれば書いていた。それが積って、地山堂雑記四十五編となり、現に三田家に保存されている。いずれも未刊の筆録であるが、それを見ると地山の学問の深さと広さが伺われる。
地山は、漢学者であるが、国学にも通じよく短歌を作り「自詠歌集」と題して「地山堂雑記」第三十八編に収めてある。
地山堂に通う生徒は、ほとんど十六歳以上の青年層であるから、子供扱いにせず、一個人として接した。
地山は小山田稲所(叔父に当る。)について国学を修めたから、歌も詠んだので、作歌の好きな生徒には添削もしてやった。それで本郡内の神職にその筋から依頼されて、祝詞の講義をした。同十一年(一八七八)四月には、正式の神官に任命され、旧金田村郷社那須神社(八幡宮)の祠官になった。
地山の門弟は、作新館と家塾とを合わせると一千余人に上る。家塾の門人で出色あるものは、黒羽向町の荒川高俊である。高俊は地山塾で漢学を修め、上京して慶応義塾に学び、福沢翁の自由主義の洗礼を受けて、自由民権論を天下に提唱し、国会開設の基盤を造った政治家である。
地山は驚くべき達筆な人であって、暇さえあれば書いていた。それが積って、地山堂雑記四十五編となり、現に三田家に保存されている。いずれも未刊の筆録であるが、それを見ると地山の学問の深さと広さが伺われる。
地山は、漢学者であるが、国学にも通じよく短歌を作り「自詠歌集」と題して「地山堂雑記」第三十八編に収めてある。