一 石工職人

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弟子入 小学校卒業後(尋常小学校または高等小学校)親権者の望む親方を選んで弟子入りさせるが、この職人は、明治三十三年(一九〇〇)の春、十五歳で大田原市の親方の弟子となった。この時は親に連れられて行き、些細の手土産を持参した。そうして左の証文を入れた。

      弟子奉公証書
               町村番地
               何之誰何男
                 氏名
                  生年月日
 右之者本日より貴殿に弟子奉公致させ候上は、左の件々堅く相守り可申候万一違背致候節は保証人に於て一切引受け毫も貴殿に御迷惑相掛け申間敷候後日の為め証書仍て如件。

一、奉公の期間は本日より徴兵検査の年までの事。

一、奉公中の仕着せ小使銭は貴殿方にて御給与下さる事。

一、右期間中本人又は親もとの都合によりお暇を願う節は、其の当日までの食費を御支払い可申事。

一、本人に不都合の所為ありてお暇下さる場合は、何事も貴殿の御意志に従い必ず異議申間敷事。

      年月日
              住所
              右父氏名
              住所
              保証人氏名
    某殿
弟子入後 弟子入後の一年間は、石工の仕事などは手にも触れさせないで、子守、雑巾掛、走り使い等、親方の家庭の雑務にこき使われた。いわばこの一年間は人物試験をするのである。

〈石磨き〉石碑とか灯籠とか磨きをかけるものにとりかかる。これが同じことを繰り返すばかりで、すこしも仕事に変化がないからあきあきする。その怠け様子が少しでも親方の眼に入ろうものなら、大喝一声より先に、手当り次第、物を持ってなぐられ、次に「馬鹿野郎!」とくるのだから有り難くない。それで逃げ出そうと思って人知れず泣いたことが、幾度あったか知れない。またこの苦しさに堪えかねて家に帰った者もいた。
〈弟子の躾〉弟子の躾には親方の気性が移っていくと思われる。この職人さんの親方は、親切ではあるが、非常に厳格で綿密な躾けかたであった。まず名前を呼んで返事をする時「はい」と答える前に立ち膝になって腰を浮かす姿勢を取ると同時に返事をするように躾けられた。これはただちに立って用事にとりかかる準備態勢になるからであるが、最初は「はい」と答えるばかりで、立ち膝にもなれず、まして腰を浮かせることなどは到底できなかった。それが一日に何度となく繰り返されるからいつとなしに出来るようになった。次に休憩であるが、お茶は旦那の方で出してくれても、弟子は白湯しか呑めない。また親方よりも先に席を離れて仕事にかからねばならない。
 足袋(石工は草鞋がけ)は恵比須講(陰暦十月廿日)前は、はくことを許されないで、藁草履。麻裏草鞋などは年期明けまで許されない。
 薮入りは普通の職人は、盆と正月であるが、石屋はお盆はお墓に石碑を建てることが多いので、一番忙がしい時であるから許されない。また彼岸も他の職人は休めるが、石屋はその頃は墓碑を建てる人が多いから仕事が忙がしいので休めない。しかしその代りに、適当な日に休ませてくれる。
〈仕着せと小遣銭〉奉公中仕事着(印半天と浅黄の股引)はくれるが、衣類となると夏は浴衣の単衣、冬は袷衣だけで、綿入衣は貰えない。小遣銭は明治三十七、八年頃(一九〇四)は、事日に金八銭が普通で、正月やそのほか里帰りには金拾弐銭を貰った。年がとって仕事が出来るようになれば、小遣銭も多く欲しいが、親方は増してくれないから小遣銭取りのほまち仕事をした。それは道具だけで材料はいらない。石臼の目切りなどをして小遣銭をかせいだのである。
〈仕事の順序〉石磨きが一丁前になると沓石(くついし)柱を立てる台石を親方は荒削りしたものを与えて、それを滑らかに削って仕上げさせる。両刃の手斧(ちょうな)の持ち方は、右の手で柄の下の端を握って、しっかと右脚の上股に着けて軸とする。左の手は手斧に近いところを軽く掴んで上げたり下げたり、左右に動かしたりして手斧を自由に動かすことが出来るようにする。とにかく始めのうちは、何でも親方が荒削りして渡してくれるものを滑らかに削り平らにする一方である。その間にフイゴ吹きをやらせられる。石屋の仕事は道具が皆金属であるから火にかけて焼きを入れ、歯を揃えることが大事である。親方は道具を火に入れて、金が熱して赤くなったものをとり出して金敷の上で鍛え打つ。一方弟子はフイゴを吹いて、親方の火の中に入れた道具の焼け具合を見はからって、できたと合図するのだが、この焼け加減がむずかしい。これを三年程やらせられる。フイゴ吹きを三年もやらせると今度は、これまで親方のした金敷の上で歯を鍛え打つことや、水に入れて冷す湯加減を呑み込ませられる。これが又一大事。石の軟硬によって、道具の焼き方が夫々違う。これがうまく出来るようになるのは、年期明けの頃であろう。〈仕事の祕伝〉親方は仕事の祕伝を別に授けてくれることはない。奉公期間六年の間に、親方や兄弟子の仕事を見よう見真似で、いつとはなしに体得するほかはない。ただし鳥居とか灯籠とか寸法の定まったものは、その規制を教えてくれる。例えば鳥居などは、柱の高さ一丈、直径八寸の大きさなれば、笠木(両柱の上に横たえる石材)の直径一尺二寸、柱の外側に出る鼻の長さは笠木の直径の何割となる。仕事の巧拙のあるのは彫刻物である。これは教えることも、覚えることも出来ない。全くその人次第である。しかし熱心に魂を打ち込んですれば、ある程度までは上手になる。
〈年期明け〉徴兵検査をした年の暮に年期が明ける。六か年かかる。この際は一通り必要な仕事の道具は与えてくれる。ほかに木綿の袷と羽織をくれるが、普通にはお礼奉公一年間働くことになっている。この間は親方は一人前の職人として取り扱う。本当の仕事は、この一年間に磨きがかかるわけである。しかし本人の都合で、お礼奉公をしないで親方の手を離れるものもあるが、どんな職業の職人でも、お礼奉公をした人の方が腕が一段上のようである。
〈親方と弟子との交際〉親方と弟子との交際は、まったく血を分けた親子関係の交際と同じである。年始、歳暮、中元の贈り物は欠かさず行い、親方の家に吉凶異変があれば、かならず伺候する。親方もまた弟子の方に来てくれる。親方夫婦の存命中は親子同様の交際を続ける。   (黒羽向町石工笹崎三郎氏談)