二 大工職人

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明治三十五年(一九〇二)四月、高等小学校を卒業した十四歳の時親方に弟子入りをした。約束の事は、大体職人共通の条件であるが、その勤め方は職業の種類によって夫々違っている。
〈弟子入り後〉弟子入り後の一年間は、まず下女代りの掃き掃除、雑巾掛けをやらせられる。五、六か月たって、家庭の仕事になれてくると飯炊きをやらせられた。それから親方等の作業場所に弁当箱を背負って毎日昼食を届ける。また仕事場が変れば変った場所へ親方の道具箱を背負って行く。こんな雑用ばかりで一年間は全く大工の仕事に手を触れさせない。これが終ると職場に連れていかれる。
〈仕事始め〉職場に行けば、まず親方はじめ兄弟子たちの道具を砥いだり砥石洗いをさせられる。それから親方が寸法を測って墨をつけてくれた木材の穴堀りを始める。これが大工のいろはのいの字だが、はじめてのみを握って玄翁を叩きちまめを出す。大工も楽な仕事でないと厭気がさす。だんだんなれてくると血まめの出来た左手の握りはたこが出来、だんだん固くなってなんともなくなる。この穴が真直に掘りぬけるまでには少し日数がかかる。次は鉋掛けに移る。先ず刃物の砥ぎ方を覚えねばならない。又鋸の目立が出来なければならない。道具の使い方で一番むずかしいのは手斧で、これは刃先が自分の足の指に向かってくるのだから熟練していても木材にふしがあったりすると調子が狂って、足の指なり脛なりを傷つける。
〈弟子の躾〉早飯、早屎、早襷は男の一芸といって、何でも早くやることを喧しくいわれる。仕事場の動作でのろのろしていようものなら親方は手に持っている道具で、物も言わずに殴りつける。お茶が出れば親方や一人前の職人は、呑んだり喰ったりするが、弟子入りの浅い者は白湯も呑めず、冷水を呑むだけ、御飯は、朝食だけは温い飯をたべられるが、夕飯はいつでも冷飯ばかりである。
〈仕着せ〉仕着せは作業衣の半天股引はきまっているが、股引は浅黄色の地のうすい木綿の単衣(紺の股引、腹掛は一人前の職人に限る)である。寒中は仕事に精出せば身体が暖く汗ばんでいるから別に寒いとも感じない。足袋は恵比須講(陰暦十月二十日)前までは絶対にはかせない。職人は総て薄着であるが、身を軽くするためで、これで弟子入りから鍛えられるから皮膚が丈夫になっているから風邪をひくようなことは少ない。
〈仕事の祕伝〉仕事に上達してくると親方は口癖のように、「仕事を盗め」といわれた。それは他の兄弟子や一人前の職人の仕事に深い注意をはらって要領を盗み取るのである。どうすればよいのかなどきくものでもなし、きいたとて教えてくれるものでもない。こうして年期明けまでに仕事のコツを呑み込むのである。大工でむずかしいのは、建物の設計だが、近来は専門の設計士がいるが、昔は大工にまかせられるからその勉強もしなければならなかった。次に隅木の取りつけと、屋根の谷木(たにぎ)の取りつけ、梁木(はりぎ)の墨縄打ち算段である。
〈年期明き〉十四歳から廿一歳の兵隊検査まで八年間かかった。その間わずかな小遣銭を貰い、粗食でよくも栄養失調にもならず、盆、正月の里帰りも二泊以上は許されず、苦労を重ねて年期明きとなる。年期明きには職人の定例で、使用した道具の一切と袷衣、木綿羽織は貰える。なお、お礼奉公を一年した。お礼奉公が終ると親方によっては聟入着物の羽織袴をくれた。
〈親方との交際〉何職人に限らず親方と弟子の交際は、肉身の親子同様である。年期が明き、年をとってくると親方に強く叱られたことが身に泌みて有り難いと思う。親は育ての恩、親方は命の恩である。
 太平洋戦争が始まってから若い者は徴用されたから弟子はなく、自分も徴用された。この戦争中、弟子になるものがなくなったので、どんな職人でも弟子に不足している。現在では自分の子供に親の仕事をつがせるようにするほかはない。しかし他人の飯を食わせなければ、本当のよい職人にはなれない。(黒羽向町 阿久津留吉氏談)