当時女子の実生活に必要なものは、裁縫であった。これを習得するには、主としてその技に通じた寺子屋師匠の妻、または御針屋という教育機関によって教授された。すなわち、女子は家庭で裁縫の手ほどき、紡織、応待、坐作進退の技を習い十二、三歳頃から御針屋へお針子として弟子入りした。しかしお針子として稽古出来るのは、相当裕福な家庭に限られていた。衣食住に制限があり、羽織、袴を多く着用出来なかった当時においては、深く裁縫を稽古する必要はなかったのである。それで、裕福な家庭でも母親から習い、御針屋へ通っても一般には雑巾や野良着、簡単な普段着を縫う程度であった。従って農村で新しく反物を裁ち、着物、羽織が縫える者は、僅少であった。師匠は城下町、商業都市等で裁縫を職業としていた人を除けば、いくらか稽古をした人が頼まれて教えた者が多い。お針子も一年を通じて師匠の下にかよう者は極めて少く、農村では農閑期を利用して人数も十人内外であった。このような師匠の家は、概ね地方の上流家庭であり、お針の稽古に通うのは他に多くは行儀見習を兼ねていたのである。殊に武家の妻女を師とした者は、言葉遣い、挨拶の作法に至るまで躾をうけた。こうして知らず知らずのうちにお針子は良い習慣を養っていった。また士族、裕福な商家では、師匠を招き家庭で習得した。このようなお針屋では月謝はなく、年始、節句、盆、暮につけとどけをし、入門の際は師匠に酒、お針子は赤飯、煮しめ、菓子等を持参する習わしであった。お針屋において月謝制が確立したのは明治以降である。