一 荒川塾

489 ~ 490
所在 川西町大字黒羽向町(現黒羽向町)
   上町の現在荒川正俊氏の住宅
沿革 明治初年(一八六八~)から二十五年頃まで
塾主 荒川静斎

 荒川静斎は漢法医者で、鍼術も達者であった。医は仁術なりと心得て、薬礼などは患者の意志に任せた。老年になって専ら子弟の教育に心を尽くした。月謝などは受けず、節句などに少しの贈物を受ける位であった。明治の初年から塾を開き、同二十五、六年まで続いた。日本外史や四書の素読を教授し、塾生は前後二百人に及んだ。性質甚だ温厚篤実で、町の人たちは「孔子様」のあだなをつけた程だった。晩年は堂川に寓居して、門を閉じ軒に念仏庵の額をかけて念仏三昧に日を送った。
漢学に通じていたので、仏教の信仰に入ったものと思われる。また和歌を好み、折に触れて時事を諷した俚謡を作った。六十一歳の時に、自ら左の寿碑を建てた。

(黒羽向町常念寺墓地)

    我多年以医為業 又常好絃歌
    交其人仍戯号歌翁矣 自揮毫書
                   荒川静斎
              歌翁墓
                   同翁配俊
        干時六十一年          四月建石
明治三十六年(一九〇三)十一月九日永眠した。彼の自由民権論で天下に鳴らした政客荒川高俊(明治廿三年九月卒す、年三十四歳)は、静斎の次男である。