六 私立施有学館

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所在 黒羽町前田
沿革 明治二十三年(一八九〇)から同二十七年まで
館長 佐藤計四郎

黒羽町前田、もと秋庭医院のあったところに設立された。館舎は道路に面して、間口四間奥行三間の民舎のあったのを購入して改造した。この館舎と三間ばかり離れて西方にあった独立家屋を購入して館長の住宅にあてた。

設立者 黒羽町には藩学作新館があり、その廃絶後同町八塩に漢学を教授する三田地山の地山堂私塾があったが、その廃絶後同地方に漢学を教授する私塾がなかったので、左記の人たちが相謀り、三田地山の高弟で、当時栃木県庁学務課に勤務していた前田出身の佐藤計四郎を、郷党の子弟教育のために懇請して館長とすることになり、明治廿三年三月設立した。設立者は、

   黒羽町堀之内             小室善之助
   同所                 小室馬之助
   同所                 小室源五郎
   同所                 益子清資
   同所                 小山田政太郎
   同所                 高梨真六
   同所                 三森初太郎
   同町前田               塚本忠信
   同所                 浄法寺清
   同所                 大塚寅次郎

   の十名で、計四郎は時に三十六歳であった。
教科目 漢学を教授するのが主目的であったが、館長に聘された佐藤計四郎は、県庁学務課に勤務していた関係から、漢学のみを授けるのでは、現代の社会状況に適応しないという見地からして、算数を加え、その教師には、黒羽高等小学校訓導で、同町八塩出身である益子晋を依頼した。

教科書(素読用)
 漢学塾の教授法は、まず読むことを授け、読書力がついてから、講義を授ける順序であったから、素読用の教科書として
皇朝史略(青山延宇著)
日本外史(頼山陽)

十八史略 文章軌範、論語 孟子、大学、中庸の順序であった。もっともこの素読用の教科書は、素読が終ると講義に用いられる。つまり読むことと講義と二回にわたるわけで、読書百遍義自ら通ずるというやり方であった。一度先生の読まれるのを謹聴し、終って席を退き、別席において、同席した学生と交互に音読して文字の読み方を習得したのである。ことに文章規範中の名文は暗誦することを競争した。

教科書(講義用)
講義は、日本外史の論文だけである。先ず先生の前の机に正座し、輪講と称し、順序を定めて、学生が交互に講義し、先生の批判訂正教授を受けた。上級に進むと、
春秋左氏伝
詩経、書経、易経、礼記

で、いわゆる四書五経の講義が出来れば一応漢学を卒るのであった。漢文作法と詩作、講義に移る段階に進んでくると、漢文作法の順序として漢文を仮名交文に改めたものを板書(算数を教えるため大きな黒板を備え付けてあった)して漢文を直させる。―復文と称す―ことを練習させた。漢詩の作法は、一通り平字仄韻字の別あること、五言絶句、七言絶句の文字の配列の規則等を授け、当時書店に販売されていた作詩法の書物を随意に購入させて作らしめ、先生はこれを訂正批評してその詩稿を返付した。

学館の維持
 前記の創立者が出資して館舎と館長の住宅とを購入したが、毎月の授業料は金弐拾五銭、学生数は、最も盛んな時で三十名ばかりであったので、到底館長の一家の生活費を充すわけにはゆかないから創立者が分担して支出したがその金額は不明である。

廃館  明治廿三(一八九〇)年三月創立して、同二十七年九月廃館するにいたった。創立以来僅かに五年弱である。原因は、館長の一身上の都合によったのには相違ないが、維持経営して行く経済上の関係もあったことであろう。

館長佐藤計四郎
安政二年(一八五五)六月前田村に生まれた。世々黒羽藩に仕え、父を官大夫と云う。長男熊太郎が戦死したので家を継いた。幼名は金郎。元治元年(一八六四)藩学作新館に入って漢文を学び、かたわら三田地山の家塾に通った。明治二年(一八六九)四月、始めて黒羽藩主に仕え児小姓(小児で藩主の侍者となる役目)となった。同三年十月、藩の貢進生(藩費を以て遊学させる学生)に選ばれて、東京の大学南校に入学して英語を習い、余暇を以って大野誠及び芳野金陵の門に出入して漢学を修めた。同四年六月黒羽に帰り、ふたたび作新館に入学し、同六年二月まで漢学を修め、同月作新館監督となった。同七年同校が改組されて小学校となったので、同校小学一等助教となり、同八年四月、作新館の変則(漢文を教授)文学助教に雇われて、師の三田地山を輔けて授業した。月俸八拾五銭給与されたが、同十一年一月から昇給して金壱円弐拾五銭になった。この頃自宅において余暇をもって学生に教授した。作新館小学二級授業生になった旗山金弥同小学二級授業生になった秋庭陣四郎等は生徒であった。同十八年十二月、私立作新館が廃されて公立小学校となったので退職し、翌十九年栃木県庁学務課に勤務した。同二十九年上京して小石川に居を定め、翌年一月会計検査院に奉職し、同三十八年印刷局に勤務し、夜間に漢字教授の家塾を開いたが生徒は二十余名もあった。同三十八年に小石川白山盲唖学校に転じ同四十年同校長となり四十二年退職した。その後は閑居して旧主君大関家に出入し、文書の整理に力を尽した。大正十四年(一九二五)七十一歳で永眠した。