又曽孫増業は文武の才に長じ蘭学にも達していた。大いに教育に心を用い藩学「何陋館」を創立し、当時として珍らしい国学を主として授けた。博学であり残された書籍も多方面に亘っている。その著書をあげると
止戈枢要(兵学に関するもの) 三六〇巻
機織彙編(機織染色に関するもの) 和装五冊
紅紫茜染方並金鍍秘伝 写本
彩色類聚(染色に関するもの) 写本
六史兵髄(兵法に関するもの) 一〇巻
創垂可継(藩政一切の事項を述ぶ) 八一巻
乗化亭奇方(漢法医薬に関するもの)七〇巻
黒羽版日本書紀 和装四冊
日本書紀文字錯乱備考 和装三冊
書紀私語鈔(書紀の注釈書) 一巻
常世長鳴鳥(神道の書) 一冊
喫茗新語(茶道に関するもの) 一冊
茗燕心事補意 一冊
南方録伝(茶道の伝授書) 八冊写本
乗化録(茶道に関するもの) 八巻
練革私記(製革と染方の研究) 一巻
柳営勤仕令(黒羽藩主が江戸城に於て勤務する種々の心得を述ぶ) 一巻
機織彙編(機織染色に関するもの) 和装五冊
紅紫茜染方並金鍍秘伝 写本
彩色類聚(染色に関するもの) 写本
六史兵髄(兵法に関するもの) 一〇巻
創垂可継(藩政一切の事項を述ぶ) 八一巻
乗化亭奇方(漢法医薬に関するもの)七〇巻
黒羽版日本書紀 和装四冊
日本書紀文字錯乱備考 和装三冊
書紀私語鈔(書紀の注釈書) 一巻
常世長鳴鳥(神道の書) 一冊
喫茗新語(茶道に関するもの) 一冊
茗燕心事補意 一冊
南方録伝(茶道の伝授書) 八冊写本
乗化録(茶道に関するもの) 八巻
練革私記(製革と染方の研究) 一巻
柳営勤仕令(黒羽藩主が江戸城に於て勤務する種々の心得を述ぶ) 一巻
止戈枢要、創垂可継、乗化亭奇方の巻頭に記された増業の自叙は次のようである。
止戈枢要
序
抑元和建〓後幾二百有余年武夫高レ〓兵家者流粉々雑二出世一之所レ伝妄説臆談弘多徒為二混淆之惑一失二其枢紐一膠レ柱〓レ〓殊多遺レ憾吾雖二不侫一積レ思有レ年就二兵家者流書二千有余巻一除二煩文一截二浮辞一補二不足一又兵法之内技芸及器械名目極夥不レ可二得而詳録一然而亦不レ可二悉捨一別レ類定レ篇通計三百五十有三巻自二文化甲戌一至二文政(一八二二)壬午一凡九年而肯成名曰二止戈枢要一而為二六史兵髄外伝一云爾
丹治直人増業撰
自叙
蓋兵㳒之体者理与術兼備而後〓全其功業也其用者観天時暁地利察人和而可以為治矣我 邦鴻荒之昔 諾冊二尊之経営天地也以海国兵道之政為始 彦火火出見尊自絶海国之道路 天智帝設水城於大宰府置防与烽是兵教之薀奥而其帰一揆耳抑 神武帝東征〓来日本武尊恢弘藂雲霊剣之徳光暦代為将士之〓範乎久矣慶長元和沿革後兵家者流往々如林妄説臆談之書許多而為混淆之惑口以伝授殊設其膠柱之則紛々無端緒也懼後世覧之者煩乱上古之本経故吾雖不敏拾神軍之要領約其旨而記之為内伝積思有年矣更亦就兵家者〓等書二千有余巻而雖除煩文截浮辞然而有繁且紊錯不能取捨増減者又兵法之内技芸及器械制頗精粗多端不可〓而録焉然亦愽以伝聞採択其羣言別類定篇謂師律要畧兵技統記器械做法機織彙編組〓備考彩色類聚工〓〓録放鷹要談即為外伝通計百六十六巻総名止戈枢要鳴乎伝之子孫以貽後代好其業士由此草稿推則庶幾補於将来而大有益於捜索之労於是不敢惜其記也己黒羽主関土佐守丹治真人増業撰
創垂可継
自叙
蓋天下不一時、地不一利、人不一事、天地之変迂沿革、人事之因循損益、何有恒哉、記事目録之作、左右史官之所職、国家之大業也、先代之所創、臣子之所守、沿革損益、有自不得己者焉、我家累世、政蹟廃興、己有史籍而存、然喪乱之際、紛錯無倫次矣、寡人不敏、懼、先業之失墜、愧後嗣之鑑戎、毎誦残欠之旧録、嘆事務之錯乱、乃日夜孜々、不安寝食問古老、輯遺聞、採其最要、条理整頓、分類輯録、勤為八十余巻、題日創垂可継、予之継先志、乃是子孫之所以継予志也、欽哉子孫、有司亦宜以之、為規則也己
文化丁丑(十四年、一八一七)冬十又一月日
従五位下行土佐守黒羽主丹治真人増業識
乗化亭奇方
自叙
昔神農氏曽甞二百草一知二薬性一、把レ之更助レ人、我国開闢大己貴小名彦式神以レ薬允二天下黎庶一天然之命既全焉。善哉天高地下長明迄化之功也。鳴呼愈二病苦一者是仁術也。則国家所レ尊レ寿善也。且使二国民去レ夭持一レ寿独領主所レ為レ心何委二庸医一。用二彼盲剤一使二之加一レ病以至三傷-破二天寿一哉。是亦政用之弌績而必不レ可レ闕也。民間流布方者有二駁雑一莫レ甚レ為。観者厭棄可レ歎也。不二敢不悛一故予領地之医等試二之配剤一参以二倭漢経験方一遂錯-二綜其方薬一。病名一百三十有一。命曰二乗化亭奇方一為二七十巻一。庚子陬月下弦 □□
次の藩主増儀は和歌に堪能で歌集にはまとまっていないが、よんだ歌が数多く残っている。又藩士、藩出身者の著書も残っている。
黒羽藩士渡辺善右衛門忠の子で戸田家の養子になった戸田茂睡の著書に『あはづかし茂安が独語』『紫の一本』『若紫』『隠家百首』『梨本集』がある。
藩医大沼丁庵の子で安藤家の養子になった安藤東野は徂徠の唱えた古文辞学を信奉し、よくその本旨を承け伝えた。東野は詩文にすぐれ易学の研究も深かった。著書に『東野遺稿』がある。
小臣の出故江戸に学び京都にて学問を広めた熊谷箕山は『東海漫遊稿』『南海漫遊稿』の旅行記『通史捷覧』『通志捷覧』の歴史に関するもの、『箕山文集』の著書がある。
藩主増興をたすけた簗瀬太郎兵衛昌向(玄水)の著書には『大姓彙七十篇』『論語徴疑問二巻』がある。
農政につくした鈴木為蝶軒は創垂可継にも収められている『農喩』一巻の著書がある。
黒羽造林の基礎をつくったとも云うべき興野市左衛門隆雄は林業に関する『太山の左知』を著した。それは種子の取り方、苗の拵え方、まき方、土質、下刈等くわしく記されている。三田地山は藩学作新館の学頭をしながら藩政を扶けた。その著書に『那須国造碑考』『日本外史摘解』『地山堂明治詩抄』『地山堂雑記四〇編』がある。
この外に藩よりの仰渡書、領民の記した古文書が町内の各所に保存されている。(文書の内容については省略)
○下野国那須郡寺内村五人組御改帳(北滝五味渕寛氏蔵)
元禄四年。五人組の心得と五人組名簿
○日記写(向町阿久津健蔵氏蔵)
元禄十年。問屋日記
○心閙登下集(宇大附属図書館蔵)
元禄年中
○六拾六部納経帳(久野又吉成洋氏蔵)
○御領御代官様御替御名簿(両郷渡辺禎治氏蔵)
正徳二年(一七一二)代々の代官名簿
○御定書写他(阿久津健蔵氏蔵)
享保三年(一七一八)駄賃並人足荷物の次第
○倹約被仰出覚(田町大宮司克夫氏蔵)
享保十八年(一七三三)十一月
○阿久津家文書(阿久津健蔵氏蔵)
○日記(阿久津健蔵氏蔵)
寛保三年(一七一八)問屋日記
○倹約被仰渡覚(黒羽町蔵)
寛延三年(一七五〇)~宝暦八年(一七五八)
○古検地押改帳(吉成洋氏蔵)
宝暦四年(一七五四)久野又の検地覚
○在方御用達より勝手方借用証文(大輪吉成隆氏蔵)
宝暦十年(一七六〇)~寛政五年(一七九三)
○郷方取締法令(寺子熊久保康正氏蔵)
宝暦元年(一七五一)~寛政八年(一七五八)
○阿久津家万代勤行記 安昌(阿久津健蔵氏蔵)
安永八年(一七七九)家訓をもって子孫をいましむる文書
○郷方改役巡村につき名主役用日記(熊久保康正氏蔵)
○鹿島大神宮御遷宮供奉役割(須賀川金沢忠蔵氏蔵)
寛政五年(一七九三)遷宮役付
○五人組御仕置帳(渡辺禎治氏蔵)
寛政八年(一七九六)五人組のおきて
寛政十年(一七九八)~弘化三年(一八四六)
○農喩(北野上松本巧氏蔵)
文化二年(一八〇五)ききん用心、ききん対策のさとし
文化八年(一八一一)~十三年(一八一六)
○同右(滝田馨氏蔵)
文化九年(一八一二)
○同右(黒羽町蔵「創垂可継」四三巻)
文化十一年(一八一四)
○同右(仝右、四四巻)
文化十二年(一八一五)
○同右(大宮司克夫氏蔵)
文化十二年(一八一五)
○同右(黒羽町蔵「創垂可継」四四巻)
文化十二年(一八一五)~十三年(一八一六)
○高柳へ三〇〇石宛行状(黒羽町蔵)
文化十二年(一八一五)
○御用日記扣(大豆田礒正次氏蔵)
○轟家録。(須佐木戸村貞夫氏蔵)
文政五年(一八二二)轟家の記録
○大関増業の執政につき重臣意見書(滝田馨家文書)
○御用達飯塚茂左衛門より金借証文(益子町飯塚潤一氏蔵)
天保六年~九年(一八三五~三八)
○五人組帳(磯正次氏蔵)
天保七年(一八三六)五人組への申渡し
弘化三年~嘉永五年(一八四六~五二)
○地押改めにつき申渡(益子町飯塚昇氏蔵)
嘉永元年(一八四八)二月
○地押改めにつき申渡(益子町仁平金雄氏蔵)
嘉永中
○子御用控帳(須賀川菊池定治氏蔵)
嘉永五年(一八五二)名主の御用控
○国産政策につき懸役人より仰渡(益子町日下田実氏蔵)
安政二年~五年(一八五五~五八)
○人別帳(雲岩寺大塚栄氏蔵)
安政三年(一八五八)外来者の人別報告写
○国産明礬荷送につき元締役覚書(日下田実氏蔵)
安政五年(一八五八)
○藩政改革につき仰渡書(益子町平野良毅氏蔵)
文久二年~三年(一八六二~六三)
○軍制改革につき仰渡(小林華平編大関増裕公略記)
文久三年(一八六三)六月
○家老役はじめ諸役人へ仰渡(宇大附属図書館。益子家文書)
元治元年(一八六四)三月
○不容易の時節柄につき改革伺仰渡(滝田馨氏蔵)
元治二年(一八六五)正月
○村方諸事取締につき家老より仰渡掟(飯塚昇氏蔵)
元治二年三月
○山林田畑改めにつき申達(大宮司克夫氏蔵)
慶応二年(一八六六)二月
○兵隊役御定につき仰渡書(滝田馨氏蔵)
慶応三年(一八六七)五月
○御廻米請払へ入用帳
明治二年(一八六九)水戸川岸請書
○冠婚葬祭の簡素化他(矢倉大金武氏蔵)
年代不詳。驕者をいましめ簡素化をきめ署名をとる
このように藩主又は藩士や藩から出た学者が多くの著書を残しているし、町内に庶民の記した古文書も沢山保存されている。この中には黒羽領のものばかりでなく、天領、旗本領、寺領に関した文書も見られる。
序
抑元和建〓後幾二百有余年武夫高レ〓兵家者流粉々雑二出世一之所レ伝妄説臆談弘多徒為二混淆之惑一失二其枢紐一膠レ柱〓レ〓殊多遺レ憾吾雖二不侫一積レ思有レ年就二兵家者流書二千有余巻一除二煩文一截二浮辞一補二不足一又兵法之内技芸及器械名目極夥不レ可二得而詳録一然而亦不レ可二悉捨一別レ類定レ篇通計三百五十有三巻自二文化甲戌一至二文政(一八二二)壬午一凡九年而肯成名曰二止戈枢要一而為二六史兵髄外伝一云爾
丹治直人増業撰
自叙
蓋兵㳒之体者理与術兼備而後〓全其功業也其用者観天時暁地利察人和而可以為治矣我 邦鴻荒之昔 諾冊二尊之経営天地也以海国兵道之政為始 彦火火出見尊自絶海国之道路 天智帝設水城於大宰府置防与烽是兵教之薀奥而其帰一揆耳抑 神武帝東征〓来日本武尊恢弘藂雲霊剣之徳光暦代為将士之〓範乎久矣慶長元和沿革後兵家者流往々如林妄説臆談之書許多而為混淆之惑口以伝授殊設其膠柱之則紛々無端緒也懼後世覧之者煩乱上古之本経故吾雖不敏拾神軍之要領約其旨而記之為内伝積思有年矣更亦就兵家者〓等書二千有余巻而雖除煩文截浮辞然而有繁且紊錯不能取捨増減者又兵法之内技芸及器械制頗精粗多端不可〓而録焉然亦愽以伝聞採択其羣言別類定篇謂師律要畧兵技統記器械做法機織彙編組〓備考彩色類聚工〓〓録放鷹要談即為外伝通計百六十六巻総名止戈枢要鳴乎伝之子孫以貽後代好其業士由此草稿推則庶幾補於将来而大有益於捜索之労於是不敢惜其記也己黒羽主関土佐守丹治真人増業撰
創垂可継
自叙
蓋天下不一時、地不一利、人不一事、天地之変迂沿革、人事之因循損益、何有恒哉、記事目録之作、左右史官之所職、国家之大業也、先代之所創、臣子之所守、沿革損益、有自不得己者焉、我家累世、政蹟廃興、己有史籍而存、然喪乱之際、紛錯無倫次矣、寡人不敏、懼、先業之失墜、愧後嗣之鑑戎、毎誦残欠之旧録、嘆事務之錯乱、乃日夜孜々、不安寝食問古老、輯遺聞、採其最要、条理整頓、分類輯録、勤為八十余巻、題日創垂可継、予之継先志、乃是子孫之所以継予志也、欽哉子孫、有司亦宜以之、為規則也己
文化丁丑(十四年、一八一七)冬十又一月日
従五位下行土佐守黒羽主丹治真人増業識
乗化亭奇方
自叙
昔神農氏曽甞二百草一知二薬性一、把レ之更助レ人、我国開闢大己貴小名彦式神以レ薬允二天下黎庶一天然之命既全焉。善哉天高地下長明迄化之功也。鳴呼愈二病苦一者是仁術也。則国家所レ尊レ寿善也。且使二国民去レ夭持一レ寿独領主所レ為レ心何委二庸医一。用二彼盲剤一使二之加一レ病以至三傷-破二天寿一哉。是亦政用之弌績而必不レ可レ闕也。民間流布方者有二駁雑一莫レ甚レ為。観者厭棄可レ歎也。不二敢不悛一故予領地之医等試二之配剤一参以二倭漢経験方一遂錯-二綜其方薬一。病名一百三十有一。命曰二乗化亭奇方一為二七十巻一。庚子陬月下弦 □□
(原文は隷書返り点なし)
次の藩主増儀は和歌に堪能で歌集にはまとまっていないが、よんだ歌が数多く残っている。又藩士、藩出身者の著書も残っている。
黒羽藩士渡辺善右衛門忠の子で戸田家の養子になった戸田茂睡の著書に『あはづかし茂安が独語』『紫の一本』『若紫』『隠家百首』『梨本集』がある。
藩医大沼丁庵の子で安藤家の養子になった安藤東野は徂徠の唱えた古文辞学を信奉し、よくその本旨を承け伝えた。東野は詩文にすぐれ易学の研究も深かった。著書に『東野遺稿』がある。
小臣の出故江戸に学び京都にて学問を広めた熊谷箕山は『東海漫遊稿』『南海漫遊稿』の旅行記『通史捷覧』『通志捷覧』の歴史に関するもの、『箕山文集』の著書がある。
藩主増興をたすけた簗瀬太郎兵衛昌向(玄水)の著書には『大姓彙七十篇』『論語徴疑問二巻』がある。
農政につくした鈴木為蝶軒は創垂可継にも収められている『農喩』一巻の著書がある。
黒羽造林の基礎をつくったとも云うべき興野市左衛門隆雄は林業に関する『太山の左知』を著した。それは種子の取り方、苗の拵え方、まき方、土質、下刈等くわしく記されている。三田地山は藩学作新館の学頭をしながら藩政を扶けた。その著書に『那須国造碑考』『日本外史摘解』『地山堂明治詩抄』『地山堂雑記四〇編』がある。
この外に藩よりの仰渡書、領民の記した古文書が町内の各所に保存されている。(文書の内容については省略)
○下野国那須郡寺内村五人組御改帳(北滝五味渕寛氏蔵)
元禄四年。五人組の心得と五人組名簿
○日記写(向町阿久津健蔵氏蔵)
元禄十年。問屋日記
○心閙登下集(宇大附属図書館蔵)
元禄年中
○六拾六部納経帳(久野又吉成洋氏蔵)
宝永四年~宝永六年(一七〇七~〇九)前主吉成金右衛門、全国の神社、寺を遍歴し納経した記録帳。長年に亘り神社、寺詣りした記録で南は薩摩、北は塩釜まで遍歴した様子が解かる。
○御領御代官様御替御名簿(両郷渡辺禎治氏蔵)
正徳二年(一七一二)代々の代官名簿
○御定書写他(阿久津健蔵氏蔵)
享保三年(一七一八)駄賃並人足荷物の次第
○倹約被仰出覚(田町大宮司克夫氏蔵)
享保十八年(一七三三)十一月
○阿久津家文書(阿久津健蔵氏蔵)
享保十八年、文政七年、文政十二年、文化十年、享保十二年。問屋関係文書。
○日記(阿久津健蔵氏蔵)
寛保三年(一七一八)問屋日記
○倹約被仰渡覚(黒羽町蔵)
寛延三年(一七五〇)~宝暦八年(一七五八)
○古検地押改帳(吉成洋氏蔵)
宝暦四年(一七五四)久野又の検地覚
○在方御用達より勝手方借用証文(大輪吉成隆氏蔵)
宝暦十年(一七六〇)~寛政五年(一七九三)
○郷方取締法令(寺子熊久保康正氏蔵)
宝暦元年(一七五一)~寛政八年(一七五八)
○阿久津家万代勤行記 安昌(阿久津健蔵氏蔵)
安永八年(一七七九)家訓をもって子孫をいましむる文書
○郷方改役巡村につき名主役用日記(熊久保康正氏蔵)
○鹿島大神宮御遷宮供奉役割(須賀川金沢忠蔵氏蔵)
寛政五年(一七九三)遷宮役付
○五人組御仕置帳(渡辺禎治氏蔵)
寛政八年(一七九六)五人組のおきて
○御用達高柳源左衛門御用立金請取政文ならびに知行扶持高宛行状(沼野井滝田馨氏蔵)
寛政十年(一七九八)~弘化三年(一八四六)
○農喩(北野上松本巧氏蔵)
文化二年(一八〇五)ききん用心、ききん対策のさとし
○藩政改革につき大関増業仰渡書(黒羽町蔵(創垂可継四三巻)
文化八年(一八一一)~十三年(一八一六)
○同右(滝田馨氏蔵)
文化九年(一八一二)
○同右(黒羽町蔵「創垂可継」四三巻)
文化十一年(一八一四)
○同右(仝右、四四巻)
文化十二年(一八一五)
○同右(大宮司克夫氏蔵)
文化十二年(一八一五)
○同右(黒羽町蔵「創垂可継」四四巻)
文化十二年(一八一五)~十三年(一八一六)
○文化年中藩財政支見積案(黒羽町蔵「創垂可継」三六巻)
○高柳へ三〇〇石宛行状(黒羽町蔵)
文化十二年(一八一五)
○御用日記扣(大豆田礒正次氏蔵)
文化十四年(一八一七)十五年(一八一八)文政六年(一八二三)気象、作柄について
○轟家録。(須佐木戸村貞夫氏蔵)
文政五年(一八二二)轟家の記録
○大関増業の執政につき重臣意見書(滝田馨家文書)
○御用達飯塚茂左衛門より金借証文(益子町飯塚潤一氏蔵)
天保六年~九年(一八三五~三八)
○五人組帳(磯正次氏蔵)
天保七年(一八三六)五人組への申渡し
○勝手方積立金借用につき御用達、飯塚正五郎差出証文(飯塚潤一氏蔵)
弘化三年~嘉永五年(一八四六~五二)
○地押改めにつき申渡(益子町飯塚昇氏蔵)
嘉永元年(一八四八)二月
○地押改めにつき申渡(益子町仁平金雄氏蔵)
嘉永中
○子御用控帳(須賀川菊池定治氏蔵)
嘉永五年(一八五二)名主の御用控
○国産政策につき懸役人より仰渡(益子町日下田実氏蔵)
安政二年~五年(一八五五~五八)
○人別帳(雲岩寺大塚栄氏蔵)
安政三年(一八五八)外来者の人別報告写
○国産明礬荷送につき元締役覚書(日下田実氏蔵)
安政五年(一八五八)
○藩政改革につき仰渡書(益子町平野良毅氏蔵)
文久二年~三年(一八六二~六三)
○軍制改革につき仰渡(小林華平編大関増裕公略記)
文久三年(一八六三)六月
○家老役はじめ諸役人へ仰渡(宇大附属図書館。益子家文書)
元治元年(一八六四)三月
○不容易の時節柄につき改革伺仰渡(滝田馨氏蔵)
元治二年(一八六五)正月
○村方諸事取締につき家老より仰渡掟(飯塚昇氏蔵)
元治二年三月
○山林田畑改めにつき申達(大宮司克夫氏蔵)
慶応二年(一八六六)二月
○兵隊役御定につき仰渡書(滝田馨氏蔵)
慶応三年(一八六七)五月
○御廻米請払へ入用帳
明治二年(一八六九)水戸川岸請書
○冠婚葬祭の簡素化他(矢倉大金武氏蔵)
年代不詳。驕者をいましめ簡素化をきめ署名をとる
このように藩主又は藩士や藩から出た学者が多くの著書を残しているし、町内に庶民の記した古文書も沢山保存されている。この中には黒羽領のものばかりでなく、天領、旗本領、寺領に関した文書も見られる。