2 光厳寺

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仏殿は堅六間横五間三尺、屋根は寄棟造りで茅葺(現在は瓦)享保元年(一七一六)中興開山七世挽牛和尚の建立である。下は土間で中央に須弥壇を据え本尊が安置されている。前方両端にもと金丸八幡宮の楼門の左右あったのであるが、明治初年神仏混淆が禁止された際、旧藩主大関増勤より寄進移転した仁王像が本尊を守護するかのように安置されている。

光厳寺仏殿

 総門は堅式間横一間五尺の屋根は茅葺(現在は瓦)で、慶安元年(一四一六)中興開山四世周道和尚の建てたもので、紋が二種類あるところから、最初の所有者から一度人手にわたった後光厳寺に持って来て建てられたものと思われる。
 鐘楼は堅一間横一間三尺の屋根は木羽葺で、明治三十二年(一八九九)十五世泰山和尚が建てたもので中に享保八年(一七二四)改鋳した鐘が吊されてある。
(注)焼失した本堂は竪八間二尺横六間二尺、屋根は茅葺、承応元年(一六五二)四世周道和尚の時大関公寄進により建てられたものである。

 庫裡は竪十二間三尺横六間三尺、屋根は茅葺で、慶安三年(一六五〇)四世周道和尚の時大関公寄進により建てられたものである。

 武家屋敷の門として黒羽小学校西門に残っている。
 武家屋敷も改造され昔の面影を失っているが大宿に二、三門の石垣、正面の大玄関、座敷の間取りなど昔の姿を止めている。郭内から離れた所に下級藩士の門や屋敷が僅かに残っている。

武家屋敷

 この外に古い建物として氏神の祠がある。大輪の蛇王権現、亀久の帯石神社、余瀬の丹姓明神などがある。
 郷倉の名ごりを止めるものはあるが改造され僅かに西教寺の倉、光厳寺の倉(寺宿中郷辺の倉)が原形を止めている。