五 刀剣

521 ~ 523
黒羽藩の刀鍛治 源真守(田町二野戸氏の祖)二野戸家は田町の火災により記録、用具は焼失、鍛えた刀も戦前迄は同家に残っていたが戦時中供出して同家には無く、又町内では見当らないが、唯一腰那須町沼野井滝田氏(先祖は元家老)が所蔵している。
 長さ 七〇・一センチメートル
 反り 一・四センチメートル
 銘表 慶応三年十丁卯八月
  裏 源真守造之


源真守銘の大刀

鉄水子国照(向町山形屋加藤氏の祖)は享和(一八〇一~〇三)の頃神田鍛治町に生まれ鍛治職を修業し、東北へ修業の為旅に出た折黒羽にて病気にかかり、向町松下屋に泊り治療し、平癒後松下屋主人の仲人にて現在地の鍛治屋加藤家の娘リンの婿養子となった。加藤家には鍛治の道具があったので刀剣を打ち御用鍛治となり四人扶を受けた。
 同家には刀工の看板、焼を入れた舟が残っている。その作は戦前迄は黒羽にあったが戦時中供出し今は町内では見当らない。
 唯一腰茨城県下妻市の大宝八幡宮に奉納刀がある。大宝八幡宮は文武天皇大宝元年(七〇一)藤原時忠常陸国河内郡へ下向の際筑紫の宇佐八幡宮を勧請し創建、後冷泉天皇康平五年(一〇六二)源頼義安部貞任を討伐し凱旋の日、自から社頭にもうで祭し田を寄進する。
 その後後鳥羽天皇文治五年(一一八九)源頼朝が奥州の藤原康衡を討伐平定の日、家臣下河辺行平に命じ鎮守府の八幡宮を勧請し、これを若宮八幡宮と云う。
 この由緒ある神社に奉納されたもので、長さ九尺の大刀で、奉納に当っての道中手形が加藤家に残っている。
   往来一札事
 長ヶ九尺大太刀     壱腰
 右者常陸国大宝八幡太神江奉納仕候ニ付今般鉄水子国照と申者右之太刀所持仕諸国御信心之方勧化仕候間若シ 御関所江通掛候はゞ無相違通行を仰付下候様奉願上候以上

          聖護院宮御末光明寺覆下
             野州那須郡黒羽
                  三蔵院 □
   嘉永六癸丑年(一八五三)十月
 諸国
  御関所
   御役人衆中
 又この外に村役人に助成を願った口上書がある。
 奉納の太刀は
  刀身   二二二センチメートル
  柄   六四・七センチメートル
  本幅   六・一センチメートル
  上幅   四・三センチメートル
  切っ先 一〇センチメートル
  目釘穴 二つ
  刃絞  直ぐ刃でいくらか乱れがある。
  銘   表 下野国那須郡黒羽鉄水子国照作之
      裏 嘉永六癸丑歳四月十五日
  白鞘  長さ 二二八センチメートル

 この大刀は継ぎ目なしに打ったもので国内唯一の大刀である―他にも奉納された大刀はあるが中継してある―しかも奉納刀には珍らしく目釘穴と焼が入っている。磨いてないが刃紋はわかる。国照五十歳代の作と思われる。同家にはも一つ同様の道中手形があり、それによると同じ長さの大刀が下総の大宝八幡に嘉永六年八月奉納されている。この文書からみて、同じ大刀が二腰つくられ嘉永六年八月下総の大宝八幡宮に、つゞいて十月常陸の大宝八幡宮に奉納されたことになる。

鉄水子国照銘の大刀

 下総の大宝八幡宮については今のところ不明である。
黒羽藩の彫金師 土屋文五郎信親(余瀬土屋氏の祖)
 土屋信親は出羽国(山形)庄内の彫金師として有名な初代土屋安親の後裔で何代目か不明であるが水戸藩に仕え、その後黒羽に移り住んで黒羽藩に仕えた。信親は土屋の流れをくむ最後の人と思われる。土屋の屋敷は元金丸八幡の近くにあったが、余瀬に居を移した際墓碑も一緒に余瀬に移し、現在余瀬に墓がある。
 信親の作は現存するものが少ないが見事な作で県指定文化財になっている小柄がある。現存する数少ない作のうち二点(湯津上村金子氏蔵)がある。
 小柄 一本
   銘 慶応元乙丑(一八六五)年五月吉日
         土屋信親作
 小柄 二所(細身を二本組んだもの)
   銘 応安田氏需
         土屋信親作
 信親作の〓は宇都宮に所蔵している人(黒羽出身)がある。




土屋信親銘の小柄