六 その他

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 鋳物鉄工場は黒羽町現在の八塩橋の近傍にあった。鋳物師鈴木儀助(田町鍋屋鈴木氏の祖)の鋳物師の免許鑑札が保存されている。
  鋳物師免許鑑札
(表)     野州黒羽田町
  御鋳物師    鈴木儀助
(裏) 禁裏諸司
     真継大和守支配

鈴木儀助鋳物師の免許鑑札

 鈴木儀助の鋳物工場の模様は天保八年(一八三七)に小泉斐がかいた黒羽城鳥瞰図にも出ている。
 もと黒羽城内にあり、廃藩後明治十年(一八七七)招魂社に移され時鐘として親しまれた鐘は現在小川町片平の常円寺に現存しているが、この鐘(口径七四センチメートル、縦一〇八センチメートル、重量七五〇キログラム)は享和二年(一八〇二)に鈴木儀助政知などが改鋳したのである。このことは鐘の銘に誌されている。
撞鐘于楼声聞于外撞之有数頒数於十二肖合正于画昔挙置我海内者然也昔斉武帝置之景陽楼以応五皷夫若也耶凡撞卯者六声使人〓髪而虚口撞辰用五夫人飲食撞巳四声百官以朝万業既肇午時九声撞未者八仕者退朝衆工少憩〓申撞之七挙人晋食衆工四散撞酉〓六日色西蔵頒夜以合于昼撞諸戌則用辰ノ数逮諸亥則巳時数丑与子者用午未又以申寅使斉一也斉景陽楼之制亦然耶自古〓無置之百官不庭衆業竊〓敢以何為乎百官失朝政不正発衆工竊〓万業以廃所謂匪若鄭伯止兵鋳之其豈可不置乎是歳享保辛丑命鳧氏早山清正洪鐘既成矣高構〓〓懸高舘之傍叩之則〓〓似蒲〓之吼于海欲四民掩耳竊眼其不可獲焉清正三世承命鋳以成矣雖不若魏顆退秦師不〓其朽乎
 享保六辛丑一之日     鼎湖又号魯渓
            鈴正武字青蘭
            刊部左衛門銘書
            鳧氏鋳工早山清正
                総左衛門
斯鐘享保辛丑新鋳焉至今茲享和壬戌而八十有二年盖以星霜之久靡時不撞之故鐘漸〓而声漏於罅隙不可〓用矣因命鳧氏鈴木政知改鋳焉乃以藤隆中為植平重好巡功越同年四月十日鋳成而釁之遂使源光龍略記其事云
  〓享和二年壬戌四月十日
            奉行 興野市左衛門隆中
            作事 小山田源助重好
            鋳工 鈴木儀助政知
               蓮実甚蔵重祐
                   書之

 陶器は文化年間(一八一七年ころ)前田愛宕山麓の岡の台で、瀬戸焼が行なわれていた。
 出土する不良で破棄された破片からみると日用品がつくられていたようである。窯の様子、使用した陶土、どの位の年月この窯が続いたかは記録が無く不明である。