『おくのほそ道』は、芭蕉の紀行として量的にも最大であり、質的にも紀行の総決算的な意義を有するものであるといわれている。
貞享(じょうきょう)元年(一六八四)の秋八月に、江戸を立って『野ざらし紀行』の旅に出て、貞享四年八月には『鹿島紀行』の旅、続いて同年十月に『笈の小文(おひのこぶみ)』の旅に出た。また翌年八月は『更科紀行(さらしなきこう)』の旅、元禄二年には『おくのほそ道』の大旅行というように、元禄七年(一六九四)大阪の旅路で没するまでの晩年の約十年間は、芭蕉は旅に過ごすことが多かった。このようにしばしばあえて険難な旅に出たその動機や、旅に託する願いを、『おくのほそ道』の冒頭に次のように述べている。
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。」
このように「漂泊の思ひ」が、芭蕉を旅に駆り立てたのであるが、その漂泊の中に身を置くことが、風雅の道に生きようとする悲願でもあったわけである。