一 那須野路へ

525 ~ 526
 広漠たる那須野を、東西南北縦横に走る那須野路は、歴史の道・伝説の道・文学の道であり、自然の道である。
 古代、官道であった東山道は、下野の東部東野の地を経て遠くみちのくに通じ、中央の文物を那須野に齎(もた)らした。往時の賑わいはこの那須野路の中に、「関街道」あるいは「秀衡街道」の名を今に残している。
 歴史にその名を留めている武将たちも、かつてはここを通過し、また乱世に覇を争ってつわものどもが駆けめぐり、それらの夢の跡がこの道にはある。そうして沿道に住む民衆の口から口へと、人の世の哀歓を綴り、素朴な祈りや驚きをこめた、数々の口碑・伝説が伝えられている。さらに多くの文人・墨客も那須野路に足を踏み入れ、その美しく豊かな山河をうたいあげ、情濃やかな人の心を作品に托した。そしてこの地に生を享(う)けた人びとにもまた、それらに劣らぬ文化の営みもあったのである。まさに那須野路は歴史の道、伝説の道であり、文学の道、自然の道なのである。元禄の俳人松尾芭蕉もまた、この那須野路を辿った文人の一人であった。
 
 那須の黒ばねと云所に知人(しるひと)あれば、是(これ)より野越(のごえ)にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。遥かに一村を見かけて行(ゆく)に、雨降(ぶり)、日暮(くる)る。農夫の家に一夜をかりて、明(あく)れば又野中(のなか)を行く。そこに、野飼(のがひ)の馬あり。草刈(くさかる)おのこになげきよれば、野夫(やぶ)といへども、さすがに情しらぬには非ず。「いかがすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐ/\敷(しき)旅人の道ふみたがえん、あやしう侍(はべ)れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独(ひとり)は小姫(こひめ)にて、名をかさねと云(いふ)。聞(きき)なれぬ名のやさしかりければ、
  かさねとは八重撫子の名成べし  曽良
 頓(やが)て人里に至れば、あたひを鞍(くら)つぼに結付(むすびつけ)て、馬を返しぬ。
〔句の意味〕小娘の名を聞けば、鄙(ひな)には珍しい優美な「かさね」だという。子どもはよく撫子にたとえられるが、撫子とすれば、花びらの重なった八重撫子の名であろう。


 芭蕉はこの「かさね」という名が、よほど気にいっていたとみえ、『新編ミの虫』所収の真蹟懐紙には次のように述べてある。
 
 みちのく行脚(あんぎや)の時、いづれの里にかあらむ、小娘の六ツばかりとおぼしきが、いとさゝやかに、得もいはずをかしかりけるを、「名をばいかにいふ」と問へば、「かさね」と答ふ。いと興ある名なり。都の方にては稀にも聞き侍(はべ)らざりしに、いかに伝へて、何を重ねといふやあらん。「我、子あらばがこの名を得させん」と、道づれなる人にたはぶれ侍りしを思ひいでゝ、此たび思はざるえんにひかれて名付(なづけ)親となり、
   賀(かさね)重(をがす)
   いく春をかさね/゛\の花ごろも
    しわよるまでの老もみるべく

                 はせを

 
「かさねとは」の句は、実は曽良の句ではなく、芭蕉が作って曽良の句のようにして、『おくのほそ道』に載せたのだろうという学者が多い。曽良にはこのような深い句境には到り得まいという人もいる。「那須の黒羽といふ所に知人(しるひと)あれば」、の「知人」とは、黒羽城廓内に住む浄法寺図書高勝(桃雪)と、その実弟で余瀬におる岡忠治豊明(鹿子畑姓、翠桃)の二名のことであるが、二名については後に詳しく記す。