二 黒羽逗留

526 ~ 532
 元禄二年(一六八九)四月三日(陽暦五月二十一日)、芭蕉と曽良は黒羽の地に足を踏み入れた。それから四月十六日余瀬を立つまでの、十三泊十四日間という滞在は、『奥の細道』の旅路に於て最も長期間のものであった。
 この間に於ての芭蕉の足跡を探ってみることにする。
 
 黒羽(くろばね)の館代浄坊寺(くわんだいじようぼうじ)何がしの方(なにがしのかた)に音信(おとづ)る。思ひかけぬあるじの悦(よろこ)び、日夜語(にちやかたり)つゞけて、其弟桃翠(たうすゐ)など云(いふ)が、朝夕勤(あさゆうつとめ)とぶらひ、自(みづから)の家にも伴(ともな)ひて、親属(しんぞく)の方(かた)にもまねかれ、日をふるまゝに、日(ひ)とひ郊外(かうぐわい)に逍遥(せうえう)して、犬追物(いぬおふもの)の跡(あと)を一見(いつけん)し、那須の篠原(なすのしのはら)をわけて、玉藻(たまも)の前(まへ)の古墳(こふん)をとふ。それより八幡宮(はちまんぐう)に詣(まうづ)。与市(よいち)、扇(あふぎ)の的(まと)を射(い)し時(とき)、別(べつ)しては我国氏神正八まん(わがくにのうじがみしやうはちまん)とちかひしも、此神社(このじんじや)にて侍(はんべる)と聞(きけ)ば、感応殊(かんおうことに)しきりに覚(おぼ)えらる。暮(くる)れば桃翠宅(とうすゐたく)に帰(かへ)る。
   夏山(なつやま)に足駄(あしだ)を拝(をが)む首途哉(かどでかな)
〔句の意味〕はるかにみちのくに連なる夏山を望み見て、あの役の行者の健脚にあやかって、平安な旅を続けたいものだと願いながら、いま奥羽地方への門出に際して、お堂に安置されているその高足駄を拝むことであるよ。


 
 曽良随行日記
 
 一 同三日 快晴。辰(たつ)上尅(こく)玉入(玉生)ヲ立。
鷹内(たかうち)ヘ二リ八丁。鷹内ゟヤイタ(矢板)ヘ壱リ(里)ニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ大田原ヘ二リ八丁。大田原ヨリ黒羽ヘ三リト云モ(いえども)二リ余也。翠桃宅(すゐたうたく)、ヨゼ(余瀬)ト云所也(いふところなり)トテ、弐十丁程アトヘモドル也。

 一 四日 浄法寺図書(づしよ)ヘ被招(まねかる)。
 一 五日 雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天気吉(よし)。
一 六日ヨリ九日迄(まで)、雨不止(やまず)。九日、光明寺ヘ被招(まねかる)。昼ヨリ夜五ツ過迄(すぎまで)ニシテ帰ル。

 一 十日 雨止(やむ)。日久(ひさしく)シテ照(てる)。
 一 十一日 小雨降ル。余瀬翠桃ヘ帰ル。晩方強雨ス。
一 十二日 雨止(やむ)。図書被見(みまはれ)廻、篠被誘引(しのはらにいういんせらる)。

一 十三日 天気吉。津久井氏被見(みまはれ)廻テ八幡ヘ参詣被誘引(さんけいにいういんせらる)。

一 十四日 雨降リ、図書被見廻(みまはるること)終日。重之内持参。

一 十五日 雨止。昼過翁と鹿助右同道にて図書ヘ被参(まゐらる)。是ハ昨日約束之故也。予ハ少々持病気故不参。

一 十六日 天気能。○翁館ヨリ余瀬へ被立越(たちこさる)。則(すなはち)同ち道ニテ余瀬ヲ立、及昼(ひるにおよび)図書弾蔵ゟ(より)馬人ニテ被送(おくらる)ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間二里半余。高久ニ至ル。雨降リ出ニ依、滞ル。此間弐里余壱里半余。宿角左衛門、図書ゟ(より)状被添(じやうそへらる)。

『おくのほそ道』は、芭蕉の文学精神に基くすぐれた俳諧の紀行文であり、『随行日記』は、事実を忠実に書留めた曽良の旅日記である。いま両書を考え合せながら、黒羽に於ける芭蕉の姿を見ていこう。
 両書を比較してまず気が付くことは、日程や場所の記述にかなりの食い違いがあるということである。例えば、『日記』では四月三日、黒羽に着いた初日に翠桃宅を訪れて泊っている。浄法寺図書の家に招かれたのは翌日であった。そうして五日に雲岩(巌)寺見物。『ほそ道』では最初に浄法寺家を訪れ、後日に桃翠が芭蕉に会ったことになっており、雲岩(巌)寺見物は最後に記されている。特に重大なことは、『日記』では翠桃と書き、『ほそ道』では逆に桃翠と記している。研究家の多くは、桃翠は誤りであって翠桃が正しいとしている。しかし蕉門の俳人たちの号は、すべて「桃」が上になっているし(桃雪、桃里、桃隣等)、また余瀬愛宕神社に奉納された棟札(貞享四年三月十六日)には、浄法寺桃雪 鹿子畑桃翠 蓮実桃里 津久江翅輪 森田二寸と明記されてあったから、『ほそ道』の桃翠は単なる誤記ではあるまいとする学者(金子義夫『奥の細道の研究』)もおるのである。
 十三泊十四日間の黒羽滞在は、『日記』によれば鹿子畑宅に五泊(三・十一・十二・十三・十四)で、浄法邸には八泊(四・五・六・七・八・九・十・十五)であって、十六日朝、浄法寺家を出て余瀬の鹿子畑宅に戻り、昼にここから高久に向かって出発したのであった。『ほそ道』には郊外の名所見物は一日で廻ったように書いてあるが、『日記』では二日に分けて見て廻っている。
 こうした点については、井本農一編の『鑑賞日本古典文学芭蕉』に次のように述べてある。
「この点は、『奥の細道』が単なる紀行文でなく、俳諧の紀行文であることを考えれば当然のことであるが、ここでも《夏山に》の句と《木啄も》の句によって文章は二つに分かれている。前段は《夏山に》の句をしめくくりとし、後段は《木啄も》の句をしめくくりとする。この二つの句をしめくくりとして出すために、黒羽関係を前段にまとめて書き、雲巌寺関係を後段にまとめて書く必要が生じ、事実の時間的順序をその必要から崩している。黒羽に着いて間もなく出かけた雲巌寺行を、いちばん最後に持ってくるようになった理由の大半はそこにあろう」
 また、尾形仂の『新訂おくのほそ道』には、
「この半月近い滞在記事の整理ぶりは、まことにあざやかで、四日の雲巌寺訪問の一条を、翠桃兄弟を中心とする記事から切り離すとともに、犬追物の跡・玉藻の前の古墳などを巡覧した十二日の篠原逍遥と、十三日の金丸八幡参拝とを、一日の記事にまとめあげ、九日の光明寺参詣をその後へ回してある。桃雪・翠桃かたの往返は、その前にまとめて提出しているが、主語が次々と転換するテンポの早い叙述が、交歓のよろこびを伝えて効果的だ。光明寺参詣を最後に回したのは、《夏山に》の句を配する関係からで、ここを陸奥への第二の出発点として、旅に勇む芭蕉の心おどりが、軽快に響いてくる」と記してある。
『ほそ道』と『日記』との食い違いについては、右の二名の研究家の説明によって理解を得ることができよう。
 さて、十三泊十四日間という、黒羽の地に於ての長逗留はなぜであろうか。(尾花沢十日間、金沢九日間、山中八日間)
 その理由として『奥の細道の研究』(金子義夫著)では、次の四つの条件を挙げている。
一、人間関係・二、地理的条件・三、歴史的条件(伝説を含む)・四、気象的条件

 一の人間関係とは、芭蕉と浄法寺図書・鹿子畑翠桃兄弟との師弟関係をいっている。このことについては後に詳述するが、二人の兄弟が師匠を真心をもって、厚くもてなしたので、芭蕉も快くそれを受け、つい日一日と逗留が延びたのかも知れない。二の地理的条件は、黒羽は関東平野の北端にあり、那須の山脈を越えればそこは奥羽である。従って黒羽は江戸の文化圏に含まれていて、芭蕉にとっては、本格的なみちのくの旅ではない。此処までは、いわば長途の旅への足ならしであり、心の準備の期間であったろうと思われる。だとすれば、地理的条件というよりはむしろ、心理的条件(文学精神あるいは俳諧の心)というべきであろう。このことに関して『おくのほそ道注解』(尾形仂著)では、「……いわば武蔵野の延長としてのこれまでの旅を清算し、夏山のすぐあなたに控えた白河の関の俤を心の中でまさぐりながら、いよいよ本格的な陸奥の旅路へかかる前の気息を養う上で、かなり充足した心楽しい日々でもあったようだ」と述べている。三の歴史的条件としては、黒羽は中世においては那須氏の、近世においては大関氏の領地であって、興味をそそる歴史的事象の数々があることや、雲巌寺をはじめとする寺院・神社や名所旧跡、そうしてそこにまつわる伝説などが、いたく芭蕉の心をひいたことは、『ほそ道』の本文にうかがわれる。四の気象的条件、黒羽滞在中、降雨の日が多く、出発の足をはばんだことも事実ではあろう。『随行日記』を見ると、雨の日は六日(六、七、八、九、十一、十四日)あった。十四日間にその半数近い六日間の雨では、出発の時期を失ったのかも知れない。右のような諸条件がからみ合っての長逗留となったのだろうが、心理的条件をその中核とみたいのである。芭蕉は旅立に当って、
  行(ゆく)春や鳥啼魚(なきうを)の目は泪(なみだ)
 とよんでいる。その時の離別の泪は長く尾を引いていた。長途の旅路には、そうした惜別の感傷にいつまでも浸ってはおられない。早くこれを清算しなければならなかった。芭蕉はその機会を、黒羽滞在中に掴むことができたとみていい。言い換えれば、清算を求めての黒羽滞在、そうしてその間に於ける旅への心の準備。芭蕉にはそれが欲しかった。
  夏山に足駄を拝む首途哉
 この句を読むと、芭蕉の心の中に本格的な旅の決意が、ようやく出来上がったという感じがする。芭蕉の心的過程を辿ってみると、最初に「漂泊の思ひやまず」と旅への憧憬が打ち出されていて、次に「行春や」の句に惜別の情、そうして黒羽に到って「首途哉」の決意となった。憧憬→惜別→決意という心の流れの中に、黒羽滞在の芭蕉の姿を見ていきたい。
「黒羽の館代」
 領主の代りに館を守る人、すなわち黒羽藩高一万八千石の城代家老である。家老職については『創乗可継』(藩主大関増業編)には次のように記してある。
「家老職は家の重職にて、一邑の万端の政事の懸(かか)る所なり。君よりも専に信じて使うべきは此の職なり。家老をば主君我が一身と同じく心得て、親み厚く致し、軽々しく使うべからざるなり、家老へ対面の砌は何時も袴にて逢い申さるべきなり。家老の方よりも其の心得を以て伺うべきなり。殊により夜中などは、袴なくとも一通り右の段、家老へ側(そば)の者を以て断(ことわ)り置き逢わるべし。最も家老は諸士の司(つかさ)たる故三四人に限るべし」

「浄坊寺何がし」
『ほそ道』には浄坊寺とあるが、浄法寺が正しい。浄法寺図書高勝である。俳号を桃雪・秋鴉と称し、父鹿子畑左内高明、弟鹿子畑豊明(翠桃)と共に芭蕉門下の俳人でもあった。このことに就いては、後に詳しく述べよう。
 藩主大関氏と浄法寺氏及び鹿子畑氏の関係をみていこう。『黒羽藩諸臣系略』(益子四郎左衛門紀方撰、文化十四年)によれば、
浄法寺、藤原姓、那須之支族
浄法寺右近大夫資次末葉
浄法寺大膳大夫資元
累世那須郡浄法寺邑に住し、其の近郷数村を領す。妻は岡本大隅守が娘なり

 とあり、那須氏より出たが始祖右近大夫資次については明かでない。後代に越前守茂直があり、彼は大関高増(安碩)の庶長子であったので、大関氏から出て浄法寺氏を嗣いだ。更に後世大関政増の娘菊は浄法寺茂明に嫁し、土佐守高増の娘長は高勝の義父高政に嫁している。このように大関氏と浄法寺氏とは深い血縁関係にあったのである。
 次に浄法寺氏と鹿子畑氏との関係について述べよう。『諸臣系略』には、
鹿子畑、丹治姓
鹿子畑能登某、其先詳ならず、母は久遠大君〈余瀬白旗城主大関増次の御姉と言ひ伝ふるなり。能登妹あり、大田原備前守普山永存入道の室となる。弘境大君(大関高増)及び大田原綱清、福原資孝等の母堂也。之に依て、大君(高増)大田原より丹家(大関氏)を継がせらるゝ時、附き随ひ奉り、輔佐し奉る。

 と記してある。丹治姓であるから、大田原氏と同族であろう。喜連川町大字鹿子畑に館を構えて住み、土地の名をもって鹿子畑を称した。大田原備前守資清の長子高増が大関氏(時に十五歳)を継ぐに及び、鹿子畑能登は高増の傳(ふ)となって、白旗城下の余瀬に館を構えて住んだ(現にその館址を土手の内と称し、水田となっている)その後裔が鹿子畑豊明である。館址の裏手の北側に同家の墓地があり、豊明の墓碑がある。鹿子畑氏は後に住居を黒羽町大字堀之内に移した。
 系図に見るとおり、浄法寺氏と鹿子畑氏の関係は深い。まず鹿子畑左内高明について記そう。
『芭蕉翁と黒羽』(蓮実長記す)によれば、従来黒羽藩では、重臣の俸禄を土地を以て給与していた。これを地方(ぢかた)という。寛文二年(一六六二)に鹿子畑左内高明(この時三十五歳で家老職に在った)はこれを改め、藩の倉庫に納入の米、すなわち蔵米給与として、藩収入の加増策を藩主に建言した。ところがこれは重臣たちの減俸となるのであるから、堅く結束して反対し、一騒動が持ち上がって長くもたついた。左内高明はこの紛擾を見て自ら責を引き、寛文七年に身を退いた。時に四十歳。藩主大関増栄(ますてる)は十八歳であった。高明は江戸に出て親戚(関備前守の藩主細野竜右衛門)の家に寄寓した。長男の高勝(桃雪)は七歳、次男豊明(翠桃)は六歳であった。後に高明は帰藩を許されて、延宝七年(一六七九)黒羽に戻ることができた。高明は十二年間江戸に住んだわけだが、高勝・豊明兄弟が蕉門に学んだのは、実にこの江戸生活中であった。この間に若い二人は芭蕉の俳諧を、そして江戸の文化を貪(むさぼ)るように吸収したことであろう。
 赦免されて帰藩した鹿子畑左内高明は、名門である鹿子畑姓をはばかって岡姓を名乗り、余瀬に住居を構えた(第八世善太夫明喬(あきたか)のときに鹿子畑姓を許され、第十世に至って鹿子畑氏に復したといわれる)時に左内高明は五十二歳、高勝十九歳、豊明十八歳であった。やがて長男高勝が出でて、母の実家である浄法寺家(図書高政に嗣子が無いので)の家督を継いだ。その時の年令も、後に家老職に就任した年令も不明であるが、芭蕉を黒羽に迎えた元禄二年(一六八九)には、二十九歳の若き城代家老であった。時の藩主は大関増恒(ますつね)で、わずか四歳で大関家を継ぎ(父大関増茂(ますしげ)元禄元年十月二十二日没、祖父増栄(ますてる)同年十二月十三日没)江戸下谷広小路(湯島天神下)の屋敷に住んでいた。宝永二年(一七〇五)にやっと領地に就くことを許されたというから、図書高勝はその間を、城代という大役を勤めたわけである。
 さて、芭蕉の来訪を受けた翠桃は前にも記したように、鹿子畑左内高明の次男で、この時は二十八歳、岡忠治(あるいは善太夫とも称し)豊明といい、高四百四十八石取りの黒羽藩士であった。父左内高明はすでに故人となり、妹は余瀬光明寺津田源光の室となっていた。『ほそ道』に「思ひかけぬあるじの悦び」とあるが、この悦んだあるじの第一番目の人は、豊明(翠桃)なのである。豊明は早速使の者を走らせて、兄高勝に知らせたことであろう。高勝もこの知らせを受けて、驚きかつ喜び、明日はぜひ我が家にと、師匠の来駕を乞うたことであった。
 前にも記したように、『日記』によれば、黒羽に着いた芭蕉と曽良は、三日の夜は余瀬の翠桃宅に泊った。久しぶりでの対面、師弟の交歓さぞかしと思いやられることである。明くる四日はよいお天気であった。兄の浄法寺図書高勝の邸に招かれた。弟翠桃が道案内をした。余瀬からは約四粁の距離である。現在の地名で記すなら、そのコースは、余瀬――堂川(どうかわ)――向町(むこうまち)(下町(したまち))――六軒町(ろっけんちょう)――那珂川(なかがわ)(当時は船橋)――田町(たまち)――大宿(だいじゅく)――大雄寺前(だいおおじまえ)――浄法寺邸(黒羽町大字前田九三四番地当主浄法寺直之氏)
 
 芭蕉が浄法寺邸に招かれた時の歓びや感激の文章は、曽良の『俳諧書留』に載せられている。
秋鴉主人の佳景に対す
山も庭にうごきいるるや夏ざしき
 浄法寺図書(じやうぼうじづしよ)何がしは、那須の郡(こほり)黒羽のみたちをものし預り侍りて、其(その)私の住(すみ)ける方(かた)もつき/゛\しういやしからず。地は山の頂(いただき)にさゝへて、亭は東南のむかひて立(たて)り。奇峰乱山かたちをあらそひ、一髪寸碧絵(いつぱつのすんぺきえ)にかきたるやうになん。水の音・鳥の声・松杉のみどりもこまやかに、美景たくみを尽す。造化の巧のおほひなる事、またたのしからずや。
〔句の意味〕この秋鴉亭(書院)の座敷に居て、戸を開け放って外の風景を眺めていると、折から夏のそよ風が吹き込んで来る。庭の向こうの美しい山景があだかもこの庭内に動いて来るかの感がする。という意味であろう。初夏の明るい陽光、さわやかな風、借景の緑の山が、この秋鴉亭に映発生動する相をとらえての作である。


 なお『雪丸げ』には「山も庭も」とある。これだと五月のそよ風と共に、山も庭も亭内に動き入るように感じられるということになろうか。書院跡に句碑が建てられた。文字は加藤楸邨(俳人)の筆になる。これには、
  山も庭もうごきいるるや夏座敷
 と刻まれている。
 浄法寺図書高勝の邸宅を誉(ほ)め称(たた)えた文章で、簡にして力強い表現である。亭が東南に向かって建っておるから、「山も庭に」の「山」は、崖下の松葉川を隔てた向こうの愛宕山やそれに続く山々であろう。今、書院跡の句碑の傍に立てば、杉・桧の植林された緑の山々は指呼の間に眺められる。松葉川の潺湲でなく、崖の下方から自動車の響が伝わってきた。「奇峰乱山」はオーバーな表現だろうが、この簡潔な俳文にはそれが生動しているから不思議である。
 桃雪・翠桃兄弟の心からの歓待に、芭蕉はよほど嬉しかったとみえる。その心が文章に躍動している。十四日間の長逗留の一因となったであろうことも頷けるのである。